序章  まだ夜明け前だというのに、金属の街はほの青い幻灯に包まれていた。都市核から漏れ出すかすかな振動が、大地を震わせるほどでもなく、何かの生き物の寝息のように低く響いている。上空を横切る巨大広告のラインアートは、どこか神経細胞のネットワークを想起させるが、誰一人それを不気味だとは感じていないらしい。無数の潮流が空気を押し流し、微かに漂う気配が人々の意識の隙間に吸い込まれていく。  廃棄された動物園は、都市の北外縁部に位置している。最盛期には見世物小屋のように賑わっていたらしいが、今は雑草と倒れかけた檻が荒涼とした風景をつくるだけだ。ぬかるんだ地面には半透明の水たまりが散在し、そこに映る空には、いくつもの鋭角ビルの先端が突き刺さるような影を伸ばしていた。  カミナ・アヤトがその場所に潜んでいるという噂は、もう何年も前からささやかれていた。しかし実際に足を運んで確かめる者はほとんどいない。街のほとんどの人間にとって、過去に置き去りにされた建造物は「忌むべき死の領域」に等しいからだ。だが、動物園の裏手――かつて水禽舎があった一角では、夜の闇に溶けきらない微かな光が、湿った空気に縋りつくように漂っている。  藪の中から、か細い鳥の声がした。金属質の鳴き声ではない。野鳥に似た、しかし明らかに野鳥ではない何かの声。鳥というには不思議な風情を湛えた、その小さな生き物は、誰かが古いクチバシと羽根の遺伝子情報を加工して生み出したとされる「改変種」らしい。鋭い黄色の虹彩が薄闇を切り裂くように光っている。  アヤトは膝をつき、泥まみれの軍手越しに鳥の傷を探っていた。鳥の羽根はところどころ裂け目が走り、そこから滲む血が奇妙な色合いで地面を濡らしている。彼は一度軽く息を吐き、驚くほど静かな手つきで毛布を鳥の体に巻きつけた。寒さから守ろうとしているのか、自分が見つめているものを確かめようとしているのか、それは分からない。あえて感情を口にしない彼の横顔には、人間が持つはずの表情が乏しい。  水禽舎の壁には朽ちかけた看板が貼り付いている。薄れた文字は読み取れず、擦り切れたイラストだけがかすかに残っている。そこには旧時代の「ペリカン」とやらが描かれていたらしいが、コンクリートのひび割れに苔がむして、その輪郭さえ怪しい形をしていた。少し離れたところに小さなバケツが転がり、かすかに消毒液の匂いが漂う。  アヤトは鳥を抱えたまま振り向き、わずかに顔をしかめた。空には、闇を引き裂くような紫が滲みはじめている。ここから見える都市の高層ビル群の輪郭は、まるで天へと昇る金属の蔦のようだった。無数の四角い灯りが連なり、蜘蛛の巣にも似た幾何学の網を夜空に描いている。それらが絶えず点滅を繰り返し、規則的に光の波紋を送る。宝石箱のように綺麗にも見えるが、アヤトはそこに何の温かみも感じない。都市を覆うネオンの眩さが、どこか肉食獣の眼光めいて敵意すら含んでいるように思えるのだ。  嫌悪にも似た吐息を吐き出しながら、アヤトは傷ついた鳥をそっと置いた。水禽舎の外へ通じる扉は折れ曲がっていて、抜け落ちた鉄柵が斜めに倒れている。その先はかつてのメインゲートに続く小道で、今は雑草が伸び放題になって足の踏み場もままならない。かき分けた先に、一軒の廃屋がある。動物の餌やりを管理していた事務所の跡地だ。そこで暮らしている、というわけでもない。だが、アヤトはそこに長らく留まり、動物園の廃墟を逡巡するように徘徊しているらしい。  扉を開けて室内へ入ると、薄汚れたカウンターと棚だけが残り、壁には削れたカレンダーが一枚めくれずに貼り付いている。その年号は、剥げかけた絵画の一角のように、意味を失いながら壁に残されていた。ファイルが散乱した床には、足跡がいくつも重なっていた。アヤト自身のもの、あるいは名も知らない侵入者のものだろう。  鳥を寝かせるように箱の中へ入れ、古着の切れ端を敷き詰める。彼は鳥の体を少し傾け、その首筋の羽毛を見つめる。極度の寒さと傷の痛みで息も絶え絶えのようだ。アヤトは何かを確かめるように目を細めるが、そこにもはや悲しみや慈しみの明確な色彩は見出せない。彼にとって行為そのものが象徴的なのか、あるいは動物の生死を確かめる一環として淡々とやっているのか。いずれにせよ、声に出して語られる思考は存在しなかった。  そのとき、遠くで水滴がコンクリートの床に落ちる音が微かに反響していた。外の風が隙間を抜け、紙切れの端がかさかさと揺れる。耳を澄ませば、水滴がコンクリートの床に落ちる音がかすかに反響している。廃墟に漂う音たちは、何かがかつてここに生きていたことを語り続けているようだったが、それも今や空虚な残響に過ぎない。  瞬間、アヤトの鼻腔を刺すような臭いが漂った。都市核から漏れ出す化学物質だろうか。鳥が弱々しくピクリと羽を震わせる。アヤトは無言のまま鳥の頭を軽く撫で、微かに息を吐く。ふと空を見上げたその先に、破れた屋根から細い光が差し込み、一筋の線のように埃が漂っている。そこに溶け込むように、一滴の雨が落ちてきた。外はまだ暗いが、にわかに雲行きが怪しくなり始めているのだろう。  都市の中心部では、毎年のように“祝祭の日”が近づいているらしい。イルミネーションに塗り固められた歓楽街が映るホログラム広告を断片的に見かけたが、アヤトにはそれがどうでもよかった。かつて動物園には、冬の時期に家族連れが押し寄せたという歴史があるらしい。光のデコレーションや特別ショーなど、今となっては形だけが残っているらしいが、もう数年も開催されていない。どのみち、この場所はとっくにゴーストタウンと化している。  再び風の音。ガラスが割れかけの窓を鳴らし、建物全体をぎしりと揺らす。アヤトは身震いするように肩をすくめると、布切れを引っ張り上げ鳥の体を覆った。都市郊外とはいえ、季節は確実に冬へ向かっている。冷たい空気が肌を刺すように降りてくる。彼は鳥の横に膝をついたまま、その小さな呼吸を見守りながら、静かに瞼を閉じた。  淡い光が再び、折れた屋根の破れ目から差し込む。その一条の光の向こうには、多層都市の高層ビル群。かつて彼が設計の一端を担った、とあるシステムの頂点を象徴するあのビルが、ひどく遠くに、そして無感情な姿でそびえ立っている。アヤトは唇をかすかに噛みしめ、わずかに頭を振る。記憶の奥にこびりついているやり場のない感情と、責任と、後悔が、そのとき一瞬だけ彼の胸に去来した。  外は、雪が降るにはまだ早い。だが、都市核の人工制御により、どうやらもう少しすれば白い結晶が舞い始めるかもしれない。この廃墟にも染み込むように降り注ぐ、冷たい幻想の雪。それが聖なる祝祭を祝う合図なのか、それとも形だけの演出にすぎないのか、アヤト自身まだ答えを持たない。ただ、傷ついた鳥の羽を再び風に乗せる奇跡が、どこかに潜んでいるわけではない。  檻の残骸から風が入り込み、錆びた鉄格子が幽かな音を立てる。かつて人間は動物たちをここに閉じ込めて“観賞”し、喜んだ。それは形を変えて、今も都市で続いているのだと、アヤトは薄暗い瞳で思う。見られることと見られたいという欲望、評価と承認。動物のように生きることを拒みながら、人間はいつの間にか檻の外側を金色に塗り、華やかに飾り立て、そこへ自ら閉じこもっている。  外の風がひときわ強く吹き込むと、鳥の羽がかすかに揺れた。アヤトは目を開け、頭上の雲行きを窺うように視線を上げる。そしてポツリと呟いた。 「……生きている、のか。」  誰に向けられた言葉なのか、自分自身か、それともこの痛々しい動物か。いずれにせよ、それ以上の声は続かない。白い息が宙へ溶ける。  錆びた鉄格子を擦る風は、まるで記憶を彫刻する彫刻刀のように廃墟を削り、冷たい空気の中で新たな形を与えているようだった。冬の気配は、彼の胸に積もった埃を静かに吹き払い、見えぬ何かを蘇らせようとしていた。 ---  都市の中心にほど近い高層街区では、一足早く祝祭の彩りが灯り始めていた。曇天を背景に、無数の電飾チップが打ち上げ花火のように瞬く。空は依然として暗鬱だったが、街の上層部はまるで人工の虹を逆さに垂らしたように、絶え間なく色を変えていた。  その一角に、コンクリートとガラスでできた高級マンションがある。正面に飾られた装飾用の樹木は、常時稼働する散水装置とホログラムを組み合わせて、雪のように見える幻の水滴を漂わせている。通りを行き交う人々は、その幻影に視線を投げるか、あるいは慣れた仕草でスルーしてゆく。  上層階の一室、ガラス張りのバルコニーに立つのはリンカ・ナギサだ。クリアガラスの手すりにもたれかかり、下界の光の渦を眺めている。髪は肩までの長さ、無造作にまとめられた毛先に微かなウェーブがあって、街のきらめきがそこに反射していた。  彼女の背後には、広々としたリビング空間が広がる。壁の一面には最新式の映像スクリーンがはめ込まれ、さながら映画館のように多次元的なビジュアルが流れているが、音量は絞られ、部屋の空気は静寂に満ちていた。テーブルの上には未開封のワインボトルと、トロフィーのような飾りが何本か置かれている。どれも彼女が受賞してきた作品賞の類いだ。  数秒前、リンカはニュースフィードをざっと目で追った。そこには「祝祭準備」「人工降雪」「新作VRイベント」といった見出しが賑やかに並んでいる。どの見出しも例年と代わり映えせず、スポンサー企業の宣伝口上に終始しているようにしか見えない。  彼女は小さく息を吐く。画面にタップすると、スクリーン上には顔の見えないインタビュアーが現れた。やけにテンションの高い声で、今年の祝祭の目玉イベントを紹介している。 「……また同じ企画か」  リンカは口の奥で呟いた。画面を消すように指先を空間に滑らせると、その軌跡に応じてスクリーン全体が漆黒に沈む。ショーウィンドウのようだった部屋の奥が、急に闇を取り戻す。  バルコニーに戻ると、雪のような人工霧が僅かにかかり、ガラス表面が淡く濡れていた。リンカは手のひらでそれをそっと拭う。冷えた手先に水滴がしみ込む。ビルの林立する光景がぼんやりと歪み、まるで陽炎のように揺らいで見える。  彼女には、ここから遠い下層街区の様子は正確には見えない。それどころか、高層階が積み重なる都市では、空間的にも心理的にも、下層との繋がりが次第に希薄になっている。いつからか、人々はそれを当たり前のこととして受け容れてきたのだ。  リンカはポケットから薄いタブレットを取り出し、仕事用のアプリケーションを開く。脚本の下書き画面には、新作のタイトルが空欄のまま残されていた。編集者やプロデューサーからは「祝祭をテーマにした物語を」「感動と笑顔を」と要望が来ているが、彼女の胸はどうしても乗り気にならない。  真っ白いキャンバスを前にして、筆を持ったまま固まる画家のような焦燥感がこみ上げる。いや、焦燥というより空虚だろうか。仮に言葉を紡いでも、それがいつものように「視覚・聴覚・嗅覚、そして触覚までも再現するVR物語」の素材になってしまえば、また人々は「手軽に良質な感動」を量産的に消費するだけだ。そしてその“承認ポイント”は彼女のもとへ大量に集まり、さらなる次の創作を要求される。 「……それって、何か意味があるのかな」  誰にともなく問いかけてみる。返事はない。足元の街の喧騒は、防音ガラスに阻まれほとんど聞こえない。代わりに風のざわめきが、バルコニーの床を僅かに振動させた。  リンカはタブレットを閉じ、バルコニーの内側へと身体を引いた。部屋には一枚の紙が机の端に置いてある。クリーム色の厚手の便箋。今の時代では珍しい“書簡”の形式だ。筆跡から察するに、随分年配の人物かもしれない。宛先はリンカ・ナギサとなっており、差出人の署名はアヤト・カミナ――。その手紙は、数日前に突然彼女のもとに届いたものだ。  少し前に、あるサロンのパーティーで彼女は“噂”を聞いた。 「下層の廃墟動物園に、昔のシステム設計者が住んでるらしい」 「しかも、その男は“動物と話せる”とか何とか」  最初は与太話だと聞き流していたが、そのまま頭から追い出せずにいた。何故か後を引く奇妙な響きだったのだ。見捨てられた動物園と、そこに潜む謎めいた男。華やかな街の上層階と正反対の世界が、想像を掻き立てる。  すると間もなくして、思いがけず一通の手紙が届いた。差出人はカミナ・アヤト。文面の最後に「あなたはあなたの物語が本当に欲しいものなのか。もし答えを探すのなら、動物園で会いましょう」と書かれていた。  彼女は当初、その手紙に何らかの仕掛けを疑った。世に名の通ったクリエイターである自分を、誰かが茶化しているのかとも思った。けれど、どうしても気になる。どこか“本物”の重みを感じさせる筆跡だった。  リンカは便箋を拾い上げ、たたむようにして再び机に置く。そこには荒っぽい文字列ながら、不可解な哲学的示唆が織り込まれている。動物の視点、人間の進化、協力と非協力、そして得体の知れない革新的アルゴリズム。彼女はそれをいちいち理解しようとしてみたが、理屈の部分よりも“直感”が先に動いてしまった。 「行かなきゃ、分からない」  そう呟くと、一瞬、自分の胸が高鳴るのを感じた。これが新作のネタになるかもしれない。いや、ネタどうこうではなく、自分自身が作り手として「空虚さ」を埋めるために何かに触れたがっている。  外を見やると、バルコニーの端から虚像の雪がさっと流れていく。遠景では、重層ビルの合間にダクトのような構造体が連なり、空気を循環させるための排気が白い霧のように揺らめいている。視界を遮るようにところどころに設置された広告ビジョンには、祝祭用の派手な映像が延々と流れ続ける。キラキラと飾り付けられたツリー。にこやかなカップルの笑顔。虚飾と承認の渦。  そこには、本物らしい感情を持った人間はどれだけ残っているのか。リンカは、そんな問いを自分に投げかけながら、部屋のドアを閉めた。行く先は決まっている。行く術もある。街のレールを利用すれば、下層へはすぐに辿り着ける。もっとも、あの治安の悪さで名高い地域にわざわざ降りていく人など滅多にいないのだが。  彼女が玄関に向かうと、棚の上の端末にメッセージの着信ランプが点滅しているのが見えた。プロデューサーか編集者、あるいはファンからの催促かもしれない。普段なら即座に確認して応対するが、今の彼女には後回しにしたい気分が強かった。既にコートとバッグを手にしている。外に出て、この霧の夜をくぐりぬけて、動物園へ。 「どうなるかしら」  また、誰にともなく呟く。心の奥が妙にざわめいている。わずかばかりの冒険心と、創作意欲とも空虚とも名づけられない奇妙な感情とが、彼女を突き動かしていた。  エレベーターで下層へと降りるまでの間、彼女はスマートグラスをかけて、薄くマーキングされた地図アプリを表示させる。行き先は地図の端にある一帯。「安全区域外」と赤く表示されている箇所をタップすれば、警告のメッセージが画面を埋め尽くす。過去数年でこの場所を訪れた者はほとんど登録されておらず、データベースの空白が目立つ。  リンカは思わず眉をひそめるが、そのまま地図を閉じ、静かに笑みをこぼす。ちょっと危険な方が、心が踊るのかもしれない。刺激に飢えているという自覚がある。  やがて、エレベーターの扉が開き、外気が冷たく頬を叩く。タワーのロビーには仄かな音楽が流れていて、水槽のような大型ディスプレイが色とりどりの光を投影していた。  彼女は肩にコートを引き寄せ、そのまま雪の降る“ふり”をしている路地へ歩み出た。街の大通りは上層に比べれば少々雑多だが、それでもまだ華やかさがある。照明が明滅する看板やすれ違う人々の目、すべてが“承認ポイント”を意識して振る舞っているようにさえ見える。  リンカがタワーの裏手を抜け、小道へと入ったところで、人工の雪に混ざり合うように霧が濃く立ち込めていた。ビル群の境目は、すでに視界から溶け落ちている。まるで街そのものが影絵になったようだ。  道端で、細身の少年が玩具のランタンを売っていた。祝祭のデザインをあしらった簡素なLEDランプだが、リンカが目を向けると少年はほほえみを浮かべながらこっそり囁いた。 「買わなくても構わないさ。ただ、これがあれば足元がずっと明るくなるよ。」  彼の瞳は相手の善意を探っているような鋭さを帯びているが、見失われた信頼を必死に求めるようにも見えた。誰もが、なにかを売り、なにかを得ようとしている。その構図は一見共感を誘うように見えるが、根底には“誰かの承認”や“ポイント”への希求が潜んでいるのだろう。  リンカは軽く笑って、手のひらでごく小さな“チップ”を弾いてみせた。貫通するような電子音のピッというやり取りが交わると、少年はランタンを差し出す。 「ありがとう」  リンカはひとことだけ返し、まるで話を終わらせるように歩き出す。少年はランタンを渡すと何か言いかけたが、そのまま口を閉ざし、雪の幻に溶けるように見送った。  ランタンの光はぼんやりとオレンジ色で、路地裏の壁面を照らすと、そこに貼られたポスターの破れ目や落書きが際立つ。祝祭の宣伝や、どこかの政治的キャンペーンらしきスローガン。それらが混在して、もはや何を喧伝しているのか判別し難い。夜が更けるにつれ、光と影が、虚飾と本音が、とろけるように境目を失っていく。 「さて、まだまだ先は長そうだわ」  リンカは一人言を零し、コートの襟を立てながら足を早めた。遠くから不規則な機械音が聞こえる。それは都市核の制御システムの振動か、巨大な換気装置のノイズか。いずれにせよ、いつまでも続くリズム。人々は、まるでそれを子守唄のように聞き流してしまっている。  数刻後、彼女がさらに下層へ向かう細い道をたどり始めると、人影はまばらになっていった。同時に、壁をかすめる人工雪の量も減り、代わりに生々しい冷気が頬を刺した。まるで、上層から“祝祭”という名の装飾が剥がれ落ち、都市のむき出しの骨格が現れてきたようだ。  リンカの胸をかすかに満たすのは、警戒と興奮の混じった感覚。何かが見つかるかもしれない、あるいは何も得られずに引き返すだけかもしれない。それでも彼女は足を止めなかった。このまま物語が始まらなければ、どのみち自分は空虚の海に沈んでしまう。  そう思い込むように、彼女はふと夜空を仰ぐ。曇り空の向こうに星は見えない。その代わりに、まばらに取り付けられた白熱灯のランプが、傾いた建物の合間に暗い影を落としていた。そこに微弱な雪の結晶が舞い降り、レンズを透かすようにちらちらと光る。  リンカはその静かな輝きを見つめながら、思わず呟く。 「本当に、降るのね、雪が……」  街が演出する幻であれ、こうして肌に触れる冷たさは確かにある。彼女はコートを抱え直し、再び歩みを進めた。  遠く離れた廃墟の動物園では、同じ雪の気配を感じ取る者が、暗がりの檻の奥でじっと息を殺している――そんな予感が、どこかでリンカの背筋に触れたような気がした。人知れず一羽の鳥が羽を震わせるように、ここでも何かが震え始めているのかもしれない。  夜の闇は深まり続け、都市の喧騒は徐々に遠のいていく。祝祭の飾りが、遠くで鼓動するように瞬いている。リンカの足音だけが、路面をシャリシャリと鳴らして消えていく。リンカの歩みが街の肌をかすめるたび、冷たい夜気の中に小さなひび割れが生まれていくようだった。 ---  街の深層へ向かう途中で、リンカはある高架下の一角に迷い込んだ。そこはかつての運送路が廃止され、今はその痕跡だけがコンクリートの骨組みとなって残っている場所だ。天井代わりの高架には、かつて風にあおられたチラシやポスターの切れ端が何重にも貼り重なり、ところどころ剥がれかけている。かすれた文字が唐突に目に飛び込む。 “慈悲を誇りに生きよ” “我らが共鳴の証を掲げよ”  しかし紙片は破れ、濡れ、もはや何を伝えたいのかさえ定かでない。街が毎年繰り返してきた“華やかな布告”の痕跡が、薄暗い天井を覆っていた。  ランタンの小さな明かりは、そのポスターの断片やコンクリートの隙間をなぞる。霧と煤が入り混じった空気が停滞し、リンカの肺を少し重くする。彼女はほんの少し咳払いをし、足元を確かめながら歩を進めた。薄暗いコンクリ壁の先には、転倒防止用の柵がぼんやりと浮かび上がる。そこから先は広い地下へ続く朽ちた階段だ。行く手を遮るように鉄柵が掛けられているが、所々で折れ曲がり、隙間から何とか通り抜けられそうだった。 「行くしかないわね」  彼女はバッグを抱え直し、柵の開口部をすり抜けた。闇の中に冷たい空気がじっとりとこもっているのがわかる。階段を二段、三段と降りるたび、廃材が転がる音が鋭く響き、ひび割れたコンクリ面が少しずつむき出しになっていく。時折、遠くで低いうなり声のような機械振動が耳に響く。その正体は定かではない。都市核からの周期的なリズムなのか、あるいは地下で稼働している別の装置なのか。少なくとも、温かな生活の気配はない。  やがて階段を下りきると、細長い横穴のような通路が続いていた。リンカはランタンをかざして辺りを探る。湿った土のにおいと、コンクリ表面に染み込んだ油の刺激臭が入り混じる。上層とはまるで別世界。タブレットの地図アプリを確認しようとするが、通信が極端に不安定で、位置情報はほとんど更新されなかった。 「本当に大丈夫かしら」  誰もいない空間でそう呟くと、自分自身の声が反響してわずかに戻ってくる。さすがに薄気味悪さを覚え、リンカは少し眉間を寄せた。  横穴の奥には、かろうじて残された緊急灯のようなランプがうっすら浮かんでいた。ランプは赤いカバーがかぶせられ、瀕死の蛍光灯が点滅するようなリズムで脈打っている。そこに向かって足を進めると、やや開けた空間に出る。広く空いた天井の隙間からは、頭上に重なった都市の鉄骨が見える。場所によっては朽ち落ちているのか、冷たい滴がぽたぽたと落ち、コンクリ床に小さな水たまりをつくっていた。  ふと、通路の先に人影のようなものが揺れた気がした。リンカがランタンを向けると、そこには雑多な荷物やゴミが積まれた塊があるだけで、生き物の気配はない。彼女は軽く首を傾げ、それでも覚悟を決めて前へ進む。  足元に転がるドラム缶には、奇妙な文字列がスプレーで書き殴られていた。読み取れそうで読み取れない文字。いかにも不良グループの落書きか、あるいはこの街の違法集落を示す符丁か。誰かがここを通り、かつて何かを訴えようとしたことだけは確かだ。  そんな落書きに気を取られていたリンカは、周囲の空気のわずかな変化を見落とすところだった。次の瞬間、ふいに通路の別方向から、コツ、コツ、と硬い靴音が聞こえてくる。暗闇の奥で、ランタンの光が届かない場所。誰かがこちらに近づいているのか、それとも通り過ぎようとしているのか。  リンカは一瞬、身を強張らせた。もしかしたら、好ましくない相手かもしれない。下層にはいろいろな噂がつきまとう。犯罪集団や違法取引、さらには都市上層への強烈な反発を抱いた過激派まで。少なくとも、この深い闇の中で知らない人間に出くわすことは、めったに良いことではない。  ところが次の瞬間、靴音はぴたりと止んだ。どこかで様子をうかがっているのかもしれない。リンカは慎重にランタンを下げ、周囲の影が動くかを凝視する。心臓がどくどくと音を立てる。 「そっちに誰かいるの?」  意を決して、声をかけてみる。返事はない。しかし、奥の暗がりがわずかに揺れるように見えた。やはり誰かがいる。リンカは一瞬、引き返すかどうか迷う。けれども、好奇心が勝ってしまうのが彼女の性分だった。 「私は怪しい者じゃないわ。ただ、廃棄された動物園に行きたいだけ。」  そう言いながら、一歩だけ近づく。薄闇の向こうで、コートの裾が擦れるような気配がする。相手もまた、一歩引いたのかもしれない。  すると、リンカの足もとに何か細長いものがコロリと転がってきた。それは、古いパイプ状の棒。直径が小さい金属製のものだ。威嚇なのか、警告なのか分からない。彼女は息を呑み、棒をつま先で軽く押し返す。 「ごめん、争うつもりはないの。……本当に、ただの通り道で。」  思い切って棒を蹴り返すと、それが奥へガランと音を立てて戻っていく。すると暗闇のなかでかすかな笑い声が聞こえた。男性とも女性ともつかない、若いのか年配なのかも不明な声。ただ、その笑いはどこか揶揄するようで、敵意よりは興味を含んでいるように聞こえる。 「ここを通りたきゃ、渡し賃を払うべきじゃないのか?」  闇の奥からそう囁くような言葉がした。 「渡し賃……? お金なら、そんなにたくさんは……」  リンカは咄嗟にバッグの中を探る。小さな端末を取り出して、見えない相手に向かってかざす。 「これで十分か分からないけれど。」  彼女が言うと、再びわずかな沈黙があった。やがて、ぱたぱたと軽い足音が聞こえ、闇がほどけるように人影がこちらへ歩み寄る。  薄い明かりの中に姿を現したのは、十代後半から二十代くらいの細身の人物だった。フード付きのジャケットを深く被り、ほとんど顔が見えない。身長もリンカよりやや低い程度だろうか。だが、その目だけは鮮やかに冴えていた。まるで夜行性の動物が持つ光沢のように、わずかな明かりを反射している。 「その端末、上層の発行制か。いいモノ持ってるじゃん」  声には感情がこもっているのかいないのか、区別が難しい。言葉遣いからして、あまり教育を受けた印象はないが、ときおり鋭さが混じる。 「俺に必要なのはポイントや金じゃない。物々交換ってのは分かるだろ?」 「……何が欲しいの?」  フードの人物は少し考えるように黙り、やがて自嘲気味に口を開いた。 「話、だよ。楽しい話、怖い話、何でもいい。なんか面白いこと聞かせてくれたら、ここを通してやる。」  意外な条件に、リンカはほっとするよりも首を傾げた。面白い話が必要? この地下の闇に閉じこもって暮らす人間が、求めるものは“情報”か、あるいは単なる“娯楽”か。 「あなた、こうやって通行人に話を要求してるの?」 「たまにな。俺も暇な時間が多いんだ。生きるための情報が手に入ればいい。お前みたいな上層の人間がどんな考えでこんなとこに来るのか、興味がある。」  リンカは肩をすくめ、なるほどと思った。仮にここで彼を無視して無理矢理通っても、何をされるか分からない。彼女は作家としての意地もあり、少しだけ演出するように声を整えた。 「じゃあ、ほんの短い物語を……。私が子供の頃に実際に見た、ある“奇妙な存在”について。」  フードの人物は興味があるのかないのか、無言でうなずいた。リンカは少しだけ息を整え、心の中で記憶を辿る。これは彼女が子供の頃、ほんの一度だけ体験した記憶。物語創作のために幾度もネタとして使おうとしたが、いつもうまくいかなかった“小さな幻影”の断片。 「私がまだ小学生くらいの頃だったわ。あの頃も街は同じように華やかで、祝祭のための装飾が街全体を包んでいた。でも、私はその飾りが嘘くさくて嫌いだったの。ある晩、テレビも消して暗い部屋でじっと窓を見ていたら、外に小さな光が浮かんでいたのね。星じゃない、人工のドローンか何かとも違う、奇妙な光。『何だろう』って思って目を凝らした瞬間、その光がこっちに向かってくるのが見えたのよ。気づくと、その光が窓のすぐ外にまで近づいてきて、まるで私を覗き込むように停まった。私は思わず声を出しそうになったけど、そのまま息を止めて隠れた。そしたら、その光の向こうに人の影みたいなものが見えたの。子供の私には、透明な人型が浮いているように思えた。それが何かを言うでもなく、触れるでもなく、ただ静かに消えたの。あとに残ったのは、ほんのかすかな青い粒子のようなものだけ。」  リンカはそこまで話すと、少しだけ微笑む。 「あれが何だったのか、いまだに分からないけどね。この街には、あれに似た現象を見たって人も多いらしいわ。下層では『幽影』とか『薄明の子』とか呼ぶところもあると聞いた。正体不明の存在がたまに現れて、何かを探しているように見えるって。……以上が私のほんの短い物語。どう? 面白かったかしら。」  フードの人物は沈黙したまましばらく動かなかったが、やがて口元をわずかに動かした。 「さあな。でも……悪くない。都市が奇妙なものを生むことは珍しくない。お前がそれを実際に見たっていうのが、ちょっとだけ興味深いな。あんた、嘘を言ってるようには見えないし。」  そう言うと、フードの人物は少し横によけて、通路の先を指差した。 「いいぜ。そこを抜けた先に、細い階段がある。それを上って外へ出れば、動物園方面へ行ける道に近い。もっとも、そこからは廃墟だらけだがな。」 「ありがとう。名前、聞いてもいい?」  リンカが尋ねると、フードの奥に光る目がわずかに細まった。 「名前なんかない。どっちかというと番号で呼ばれるほうが多い。まあ、通り名はあるけど……ここじゃ言わない。俺の言葉はもう、ここに置いていくよ。」  そう呟くと、フードの人物は再び闇の奥へ一歩ずつ下がっていった。コツ、コツ、という靴音が遠ざかり、やがて静寂だけが残る。闇の中でわずかに息をついたリンカは、その言葉を後ろ髪で聞きながら軽く会釈し、足早に通路を進んだ。背後からはもう何の気配もしない。まるで最初から誰もいなかったかのように、通路は息を潜めている。  指し示された方向へ進んでいくと、錆びたドアの隙間からかすかに夜風が吹き込み、外の暗い空気と混じり合う気配がした。その先には小さな鉄の階段があり、段差を上ると今度は別の路地へと繋がっているらしい。リンカは恐る恐るドアを押し開け、ランタンを高く掲げて外の状況をうかがった。  そこにはほんのかすかな街灯がひとつだけ立ち、細い路地を薄ぼんやりと照らしていた。人工雪はほとんど届かず、むしろ地面は乾いたほこりっぽい質感を保っている。遠くにはいくつかビルの明かりが見えるが、その輝きは先ほどの上層街とは比べものにならない。まるで星屑のようにまばらだ。 「やっと、ここまで来たのね……」  リンカは軽く息を整えながら呟く。ここから先は、さらに奥まった場所へ続くはずだ。動物園の廃墟に辿り着けるかどうか、あるいは途中で挫折するか。心細さと高揚感が同時に胸を叩く。  不意に、どこからか聖歌のような合唱が聞こえてくる気がした。それは風の音に紛れて、断片的に耳に届く。通り過ぎるトラックの振動だろうか、あるいはこの辺りに住み着いた誰かが祝祭を祝うために流している音楽か。  リンカは耳を澄ませてみたが、すぐにその音は消えてしまった。代わりに、街灯の下を何か小動物のような影が走り抜ける。ネズミか、改変された小型の犬か、判断がつかない。とにかく、ここが異界であることには変わりない。  しばし黙って路地を見つめたのち、リンカはランタンを握り直して先へ進んだ。足元には割れたガラス片が散らばり、歩くたびにシャリシャリと音が鳴る。頭上を見上げると、いくつもの配管が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、滴る水がときおり細い線を描いて落ちてくる。まるで地下世界に生えるツタのようだ。  都会の闇は、意外と深い。上層の光に照らされない場所には、まるで世界が隠れているかのようだ。ここに息づく人々の存在を、上層の華やかさは見ようとしないし、見えないままでも成立してしまっている。  リンカはその事実に胸の奥で痛みのような感慨を覚えながら、さらに歩を進める。少し先に大きく朽ちた看板らしきものが見えてきた。文字は剥がれているが、かろうじて周囲の絵から“動物”を連想させるモチーフが浮かび上がる。あと数百メートルも歩けば、動物園の外縁部に辿り着くのだろう。  果たしてそこに本当にアヤトがいるのか、それともただの都市伝説か。…どちらにしても、彼女は既に引き返すつもりなどなかった。やや乱れた呼吸を整えながら、リンカは足を止めず、廃墟の方へ向かい続ける。  その頃――  廃棄された動物園の片隅では、アヤトが沈んだ瞳で鳥の羽をそっと撫でていた。冷たい夜の風とともに、都市の底から微かなざわめきが伝わってくる。それは人々の足音や機械の振動が混ざり合って生まれる“街の呼吸”のようなもの。彼はふと遠い空を見上げ、覆い隠す雲の向こうに見えない星を想像する。  近づいてくる誰かの存在を、薄暗い本能の感覚で感じ取ったわけではない。ただ、夜の空気にかすかな波紋が生まれ、かつて動物たちがそうしていたように、異変を遠くから察知しているだけなのかもしれない。  傷ついた鳥は微かにうめき、アヤトの手の中で震えている。彼はそっと布をかけ直しながら、何かを考えるようにまぶたを伏せる。胸の奥に渦巻くもの、それを言葉にする術はもう持ち合わせていない。やがてゆっくりと立ち上がり、薄い足音を立てながら水禽舎の外へ歩み出る。  彼の視線の先には、崩れかけた門がある。そこから先にはかつて子供や観光客で賑わったメイン通路が伸びていたというが、今は様々な残骸と錆びた装飾が横たわっているだけ。彼はそこに取り付けられた古いイルミネーションの配線を見上げ、無意識に眉をひそめた。  果たして、これが祝祭の名残なのか、単なる都市のゴミ屑なのか――。判別がつかないほど、すべてが中途半端に崩れ落ち、捨て置かれている。そこで彼の胸をかすめるのは、かつての研究の成果がこの都市にどんな形で根を張ってしまったのかという忌々しい思いだった。  遠くで何かが揺れる気がした。人か、動物か。あるいは風が枯れ枝を動かしただけかもしれない。アヤトはわずかに耳を傾けるが、闇の中で拡散する音の正体を掴みかねている。それでもどこか、胸の奥でざわめく予感。誰かが、この廃園の静寂を壊すために足を踏み入れようとしているのだろう。  アヤトは考え込むように一歩を踏み出した。夜の底へ吸い込まれるように、都市の闇がうねり、風がまたひとつ、錆びた柵をぎしりと鳴らす。その音が、まるで警鐘のように、あるいは誰かを歓迎するサインのように響いた。  ――物語が変転をはじめる、ほんの入り口。  上層から足を運ぶ者と、廃墟で時を止めた者。それは微かな灯火のようでありながら、周囲の影をゆっくりと動かし始める。 ---  廃園へ続く曲がりくねった細道の入り口には、かつての観光案内板らしきものが傾いていた。文字はほぼ剥がれ、動物の姿を描いたイラストも朽ちた木片の向こうに幽かに浮かぶだけ。リンカはそれを横目に見やりながら、一歩一歩、擦れた路面を踏みしめていた。街灯の届かない暗がりでは、ランタンの小さな光が頼りだ。  踏むたびにシャリ、と瓦礫とも砂ともつかない音が足元で鳴る。崩れたコンクリートの一部が雑草に覆われ、道の境界が曖昧になっている。上方を見上げると、都市核から漏れる光が空を薄ぼんやりとグレーに染め、夜の冷たく重たい空気がその場を支配している。  通路を抜けた先で、視界が多少開けた。金網のフェンスがずっと奥へ伸び、そこに多くの穴や歪みが見受けられる。どうやら閉鎖されたメインゲートを強引に突き破ろうとした跡かもしれない。あるいは何者かが出入りを繰り返している証拠だろう。  気を引き締め、リンカは足を止めた。正面には大きく口を開けた門がある。周囲の建物は軒並み廃墟と化し、窓ガラスはほとんど割れ落ち、壁一面には落書きが広がっている。かつての遊園的な造形物は色褪せて崩壊し、闇に溶け込んでいる。その様子は、まるで大きな獣の骸が転がっているようでもあった。  門の上部には、錆びついた鉄骨のプレートがわずかに残り、そこに歪んだ文字が読み取れる。「――動物園」と書かれていた名残だろう。満足に解読できるのは、その最後の二文字程度。しかし、建物の輪郭や朽ちた遊歩道を見る限り、ここが確かに“動物園の跡地”であることは間違いない。  リンカは息を呑む。潮の満ち引きのように、都市の喧騒はここまで届かない。ビル群の光からも切り離されたこの空間は、静寂が突き刺すほど深い。かすかに吹き抜ける風が、錆びたフェンスを軋ませて甲高い音を響かせた。  その風の音に紛れて、低い震え声のようなものが、ふいに耳をかすめる。リンカはぎくりと身を強張らせ、ランタンを掲げて周囲を照らした。声と呼べるほど明瞭なものではなかったが、何かがそこに“生”をもって存在するような気配があった。廃墟とはいえ、全くの無人ではないのだ。  思わず緊張で喉が渇き、リンカは唇を湿らせる。足を踏み入れる瞬間の鼓動が速まった。やがて、門の隙間を抜けるようにして敷地の内側へと進む。頭上のプレートが、まるで見えない牙をむいて訪問者を吞み込むように迫る。その不気味さに寒気を覚えつつ、それでも彼女は前進をやめなかった。  園内に入ると、地面は部分的にひどく盛り上がり、割れたアスファルトが根こそぎ剥がれた跡があちこちに見受けられる。おそらく地中に伸びた木の根が押し上げたのだろう。あるいは年月を経て雨水の浸食が進み、地下構造が崩落したのかもしれない。いずれにせよ、かつて子供たちが走り回ったであろう遊歩道は、いまや凹凸だらけの危険な通路と化している。  周囲を見回すと、遠くに丸い形状の建物の骨組みらしきものがうっすらと立っている。ドーム屋根がへし折れ、鉄骨が剥き出しになっているその姿は、まるで風化した化石のようだった。周辺には荒れ果てた柵や看板が倒れ、ハイイロの地面に錆と塵が薄く積もっている。  リンカはもう一度深呼吸して、ランタンの火を少し強めに持ち直した。ここを目指して来たのだ。差出人であるアヤト・カミナなる人物が、本当にこの場所で待っているなら、いずれ彼と出会うか、あるいは何の手がかりも掴めずに終わるか。その可能性は半々にも満たない。  わずかな期待と、妙な不安が混ざり合い、胸の奥でざわつく。こんなにも胸が高鳴るのは久しぶりだと、リンカは自嘲気味に思う。自分はVR作家として、多くの人間の疑似体験を満たしてきた。その中ではエキサイティングな冒険シーンを演出し、疑似的な危険や恐怖をリアルに味わわせてきたけれど、現実の緊張感とはまるで質が異なる。しかもこれは、作り物ではない“生の世界”で起こる出来事なのだ。  そう考えると、今ここで感じる身体の強張りさえ、新鮮な刺激に思えてくる。指先が少しずつ冷えていくのを意識しながら、彼女は歩調を確かめるように歩を進める。ミシッと木の枝を踏み割る音が響いた瞬間、またどこかで何かが動いた。低い鳴き声とも、風の音ともつかない、短い振動。  リンカは瞬時にランタンを向けたが、そこには膨らんだ黒い影のような塊が小走りで遠ざかる後ろ姿が見えただけだった。野犬か、あるいは実験動物の末裔か。かつて動物園にいた動物が繁殖して生き延びている可能性もある。彼女は少し安堵し、同時に警戒を解かないように自分に言い聞かせる。  やがて、正面に大きな柵のようなものが目に入った。そこは「ライオン」や「トラ」など大型肉食獣を展示していたエリアらしく、金属格子が連なっているのがかろうじて分かる。かつての目玉スポットだったのだろう、しかし今は闇の向こうに口を開いたまま。柵には大きな穴が開いており、何かが出入りしている痕跡があった。  リンカはその穴を覗き込む。奥はほとんど真っ暗で、床らしきものが隆起し、ささやかな影がうごめいているのが見える。水の染み出した痕跡が縦横に走り、朽ちた柱に苔のようなものがついている。まるで洞窟のようで、なんとも言えない不安感が募る。  そこで彼女は、不意に誰かの声らしきものを聞いたような気がした。耳を澄ますと、はっきり言語とは呼べない低い囁きのようだったが、確かに人間の喉から漏れた音色を帯びている。遠くから風に乗って聞こえてきたのかもしれない。あるいは自分の頭が生み出した幻聴かもしれない。 「……いるの? アヤト、さん……」  試しに声をかけてみたが、返事はない。闇は沈黙を保ったまま、辛抱強く彼女を待ち構えているようだった。  意を決し、リンカはライトの角度を少し変えながら柵の内側へ足を進める。もし誰かがここに潜んでいたとして、彼女に何か危害を加えるとすれば、それを止める術はあまりない。こういう場面に備えて護身用の道具を持ってきているが、いざというときに役立つかどうかすら怪しい。  だが、すでに引き返すつもりはない。  柵の内側に入り込むと、足元で土や枯れ草がくしゃりと音を立てた。かつては砂地やわずかな人工芝で整備されていたのかもしれない。壁に半ば崩れ落ちた看板が埋もれていて、そこにかろうじて「猛獣注意」と書かれているのが見える。文字は剥げ、かすれ、もはや誰もそれを守らない。 「ふぅ……」  彼女はほんの少し息を整える。複雑な心境が押し寄せる。不気味というより、この場所に人間の面影が強く残っているからこそ奇妙なのだ。どこに行っても都市の支配があったはずだが、ここはまるで過去の亡霊が散らばる霊域のように思えてくる。  数歩進むと、暗がりの中でかすかに光が反射した。金属か、ガラスか――? リンカは身を低くして近づいてみる。そこには、何かの道具の破片が落ちていた。おそらく注射器の先端部分だろう。先端が割れ、液体の痕のようなものがこびりついている。用途は想像したくもないが、かつてこの園で何らかの治療か実験が行われていたのだろう。  さらに奥へ足を踏み入れると、少し開けたスペースがあり、そこに薄汚れたテーブルのようなものが置かれていた。金属製の台は歪み、脚が一本外れかけている。周囲にはボロボロの資料や新聞の切れ端が散乱し、どれも湿気と泥で重くなっていた。  リンカはそのテーブルの上にランタンを置き、注意深く周囲を見回す。ここがどうやらアヤトの拠点、というわけではなさそうだ。ただ、誰かが一時的に身を寄せた痕跡がある。段ボール紙の上に古い毛布があるし、なぜか小さな使いかけの消毒液が転がっている。 「やっぱり、誰かいる……」  消毒液のラベルに描かれたマークは、既に廃番となった医療製品の印。少なくとも数年は前のものだ。だが、キャップが近頃開けられた形跡があり、こぼれ落ちた液で周囲の紙が濡れている。最近までここに人間が出入りしていた証拠と言えるだろう。  そのとき、頭上をかすめる風に混じって、柵の奥から人の気配を感じた。ぎしりと鉄が鳴る音。リンカは思わず振り向き、声をかけようとした。 「…アヤト、さん?」  だが闇は黙して語らず、かすかな人影だけが視界の端を横切った気がした。息を呑んで身構えるが、すぐには襲いかかってこない。どうやらこちらを観察しているのか、それともただ警戒しているのか。  もしかすると、あの手紙の差出人ではなく、別の人物かもしれない。先ほど地下道で会ったフードの少年のように、ここに住みついている者か、あるいは何らかの違法取引のためにこの場所を利用している集団がいるのかもしれない。  それでも、リンカはおそらくこれが“接触の機会”だと悟る。小さく喉を鳴らし、一歩、テーブルから離れて声を張った。 「私はリンカ・ナギサ、上層の街から来た。あなたがもし、アヤト・カミナさんなら話がしたい。手紙をもらったの……!」  声が闇に吸い込まれ、しばし反応はなかった。だが、やがて柵の隙間からぬっと人影が現れる。顔立ちはよく見えないが、長いコートに身を包んだ細身の体躯がわかる。かすかな月明かりというか、都市核の反射光が彼の肩を斜めに照らしている。  そっと足音をしのばせ、人物はリンカから数メートル手前の位置で立ち止まった。こちらも同じように相手を測っているようだ。心なしか、鳥の羽ばたくような気配が背後で鳴った。先ほどの傷ついた鳥だろうか。それとも別の生き物か。  リンカは声を落とし、相手を刺激しないように静かに言葉を繋ぐ。 「あなたがアヤトさん……? あるいは違う人? 私は危害を加えるつもりはないわ。ただ、話を――」  言い終わらないうちに、相手は短く答えた。 「俺だ。アヤト・カミナだ。」  口調は低く、しかし思いのほかはっきりとしている。リンカの心臓が大きく跳ねる。実在したのだ。この廃墟に住み、手紙まで送ってきた謎の人物が、今まさに目の前に立っている。  アヤトはゆっくりと近づき、ランタンの光が彼の顔をようやく映し出した。やつれた印象の頬と、深く沈んだ目。頬骨のあたりにはかすかな傷跡が走り、唇は硬く結ばれている。まだ若いのか、それとも風雪に晒されて老成したのか、年齢感が判断しにくい。その眼差しには奇妙な静寂が宿り、こちらをまっすぐ射抜く。 「お前は……“作家”のリンカだな」  声は小さいが抑揚を欠く分、彼の存在感を強く印象付ける。リンカは微かにうなずいて、はい、と答える。 「そう。あなたからの手紙を、数日前に受け取った。話を聞きたいことがたくさんあるし、私自身、あなたに聞いてほしいこともある。」  アヤトはそれを聞きながら、目を伏せるようにして小さく息をついた。正面からの光に目が慣れていないのかもしれない。 「こんなところによく来たな。危険だと分かっているだろうに。」 「ええ、でも……私は自分の足で、現実を見たかったの。あなたの研究が、この街にどんな影響を与えたのか。そのことも知りたい。」  リンカがそう言うと、アヤトの目に微かな痛みが走ったように見えた。だが、その感情を押し殺すように彼は眉をひそめ、後ろにある何かをちらりと振り返る。そこには小さな木箱があって、中で布切れが動いているのが見える。鳥を保護しているのだろう。 「……俺を探しに来た理由は、“仕事”か?」  口調はやや尖っているが、それは敵意というより警戒に近い。リンカは真摯な声色で答えた。 「半分はそう。私はクリエイターとして、新しい物語を探している。でも、それ以上に……自分が本当に心を動かせる“何か”に触れたいの。私が作り出す物語は、空虚な繭のように形ばかりで、本当の感情に触れていない気がして。あなたなら、その答えが見つかるかもしれないと思った。」  アヤトはその言葉を聞き、僅かに目を伏せる。傷口をえぐられたかのような苦悶が、一瞬だけ表情をかすめた。そして小さく鼻で息をつき、やがて低い声で言った。 「……期待外れかもしれないが。それでもいいなら、動物園の奥へ来い。ここは外からの目が届く。」  彼はそう言い残すと、踵を返して闇の奥へ歩き始める。リンカは急いでランタンとバッグを掴み、彼の後を追った。風が吹き抜け、錆びた鉄柵を軋ませる。まるで二人を嘲笑するかのように、不協和音が廃墟に反響した。  その先には、かつて小動物を飼育していたであろう一帯が広がっている。崩れた飼育舎や折れた看板が乱立し、どこから手をつければいいのか分からないほど荒れている。ところどころに水たまりができ、鉄骨の梁が曲がりくねったまま空に突き出していた。アヤトは泥だらけのブーツで躊躇なく進み、リンカも必死に足元を探りながらついていく。少し先の建物には廃棄された事務所があるようで、そこから淡い光が漏れているのが確認できた。 「そこが……あなたの住処?」  息を整えつつ問うと、アヤトは否と首を振る。 「住処というほど落ち着いてはいない。仮の仕事場みたいなものだ。」  表情は依然として硬いが、その声の奥に何か微かな決意が感じられる。まるで長い間、誰とも会話しなかった人間が、久しぶりに口を開いたときの戸惑いのような。リンカはその空気を察し、追究するような言葉を飲み込む。  風が強まっている。寒さが一段と肌に染みる。遠くでは、人工雪の落ちている街の光がぼんやりと見えるが、ここではただ湿った闇が支配している。金属の残骸が転がる無音の世界で、二人の足音だけが微かに響き合う。  事務所の扉は半ば外れかけていて、アヤトが押すとギイと小さく軋んだ。中は思った以上に荒れている。傾いた棚、散乱した書類、崩れかけの天井。その一角にだけ、ランプを置いた簡素な机があり、その脇に小さなストーブらしき熱源がある。かすかにオレンジの光を放つ炎が、机に影を揺らしている。  アヤトはそこへ鳥の入った木箱を運び、毛布を掛け直した。リンカもおそるおそる室内へ入り、崩れた壁を避けて足場を確かめる。埃のにおいが鼻を突くが、かろうじて寒風はしのげそうだ。 「座れ。そこに板切れがあるから、ほかに椅子はない。」  ぶっきらぼうに言われ、リンカは軽く苦笑する。だが、その声には敵意よりも“遠慮”が混じっているように思えてならない。彼女は壁際から板切れを引き寄せ、ランプのそばに腰を下ろした。  狭い空間に、しばし沈黙が降りる。外からは風に煽られた鉄扉が震える音だけが聞こえ、薄い壁の向こうで何かの水滴がぽたぽたと落ちている。リンカは手袋を外し、手をストーブの熱で温めながら、意を決して口を開いた。 「あなたに聞きたいことはたくさんある。でも、まずは……手紙に書いてあった『人間は動物より高等だと思っているが、それは錯覚だ』という一節。あれはどういう意味なの?」  アヤトは机に片肘をつき、しばらく黙ったまま考え込んでいる。光が彼の髪に反射し、目元に影を落とす。やがて低く、しかしはっきりした声で答えた。 「俺はかつて“社会アルゴリズム”の研究をしていた。協力と非協力の境界、承認欲求、情報伝達の効率。そういうものをモデル化して、人間社会の未来をシミュレートしていたんだ。……その結果を導入した都市こそ、今のお前たちが住む“この街”だ。」 「ええ、それは噂に聞いた。あなたが基礎を築いたって。」 「それだけじゃない。人間が動物と決定的に違うのは“抽象的な欲求”を肥大化できることだ。だが、それは決して進化の絶対的な優位性じゃない。むしろ、歪みだ。欲望は抑えられず、繁栄を求めすぎる。そこに俺はある種の責任を感じている……」  彼はそう言いながら目を伏せ、どこか遠くを見つめているようだ。そこには自責の念のようなものが宿る。それだけでなく、もっと深い慟哭が隠されている気配がする。リンカはその表情の翳りを見て、過去に彼が何を抱え、何を失ったのかを想像せざるを得ない。  外は相変わらずの闇夜。人工降雪こそ届かないが、遠くのビル群がぼんやりと光のしぶきを上げ、冬の気配を街に吹き込んでいる。  室内は次第に静まり返り、ストーブの炎がわずかにゆらめく光を壁に投げかけている。外からは時折、風に煽られた金属音が微かに響き、そのたびに二人の影が揺れる。リンカはやがて膝を抱え、視線をランプに落とした。 「……こんなに静かな夜って、久しぶりだわ。」  ぽつりと漏らした言葉にアヤトは応えず、代わりに壊れかけの窓枠のほうを見やった。その横顔には、長い孤独を抱えた人間だけが持つ静けさが宿っている。  リンカはその横顔を見ながら、ふと肩の力を抜く。寒さと疲れでリンカのまぶたが重くなり、ぼんやりとした思考の中で、彼女は“この出会い”が何をもたらすのかを考えあぐねる。ただ、心の中のどこかに眠っていた感覚が、小さく目を覚まし始めているような気がした。 「……休んだほうがいい。今夜は冷える。」  アヤトが不意にそう言い、崩れかけた壁際に体を預ける。言葉に込められた気遣いがかすかに胸に響く。それに頷くように、リンカはバッグを傍らに置き、身を丸めた。  ――薄明かりに照らされるリンカとアヤトの影は、都市という枯れ果てた大木が放つ最後の葉陰のようだった。社会が築き上げた虚像の城は、今や基盤を崩し、自らを支えられないまま時間に沈みゆく。彼らの間で交わされる言葉は、霧の中に差し込む光のように、次の一歩を探し当てようとしている。  傷ついた鳥の微かな呼吸が、箱のなかでときどき羽をそよがせる。冬の訪れを知らせる冷たい風が、隙間から吹き込み、灯りをかすかに揺らす。ふたりを取り囲む静寂が、まるで都市に巣くう闇を凝縮したように重い。  闇に浮かぶ二つの影は、冬の夜空を彷徨う星々のように、寄り添いながらも果てのない空虚に挑んでいるかのようだった。 --- 第一章  翌朝。もっとも、この多層都市における「朝」という言葉には、どこか象徴的な意味しか残っていない。上層では街の照明が徐々に切り替えられ、広告ビル群の光が薄くなりはじめると、人々は「朝だ」と認識する。それが自然の太陽光なのか、人工照明の制御スケジュールなのか、もはや見分けられないほどに区別が曖昧だ。  廃園の事務所跡は、そのどちらからも切り離された空間だった。アヤトは崩れかけの壁に寄りかかり、うつらうつらと浅い眠りをとっていた。ストーブの炎は既に弱まり、室内には灰の匂いが漂う。湿った空気が肌にまとわりつき、鼻腔に埃の苦さを残す。  リンカは打ち捨てられた机の縁にもたれ、いつの間にか仮眠をとっていた。睡眠というより意識を休止した状態に近く、疲れはさほど取れていない。薄く瞼を開けた彼女の視界には、木箱の中でじっと丸まる鳥の姿が映る。夜と違って少しは明るい――そう感じたのは、壊れかけの窓から外気の青白い光が差し込んでいるからだ。 「……寒いわね」  リンカは呟き、軽く肩を回して身体をほぐす。コートを羽織っていても手足の先は冷え切っている。ストーブの熱源はほとんど残っておらず、空気はどんよりと重い。やや乾いた匂いがするのは、どこかから漏れる排気がここへ流れ込んでいるのかもしれない。  ゆっくり起き上がろうとすると、背中がじわりと痛んだ。こんな場所で一晩明かすのは初めてだ。いつもは高層マンションの軟らかなベッドで寝ていたことを思えば、ギャップが激しすぎる。しかし、そうした不快感よりも、今は妙な充実感が彼女の胸を占めている。  ――この場所にたどり着いたこと、アヤトという人間と出会えたこと。すべてがまだ得体の知れないままなのに、自分が少しだけ「生きている」と思えてしまう。それこそが、最近ずっと忘れていた感覚だった。  部屋の隅で、アヤトが唐突に身じろぎし、荒い息をひとつ吐いた。目元を指で押さえ、顔をしかめている。うなされているのか、それとも浅い眠りから無理に引き戻されたのか。リンカはそっと声をかけようとしたが、アヤトのまぶたが開き、険しい視線がこちらを捉えた。 「……おはよう」  リンカが遠慮がちに言うと、アヤトはわずかに息を吐いて立ち上がった。視線を横にそらして部屋を見渡す。その拍子に、鳥の寝床を置いた木箱が目に入ると、彼はすぐそちらへ歩み寄り、そっと箱の中を覗き込む。 「……生きてるな。呼吸が安定してる」  かすれた声でつぶやく。リンカも近づいて覗き込むと、鳥は昨夜よりも少しだけ落ち着いているように見えた。目は半開きのままだが、羽根の震えが幾分おさまっている。 「あまり動かさないほうがいい。もうしばらく温め続ける必要がある」  言いながら、アヤトは古い布切れを少しずらし、鳥の体に触れてみた。鳥がごく微かな声を立てる。痛々しくも生きている証が確かにそこにあった。  リンカはそっと息をついて、鳥の弱々しい姿を見つめた。昨日、上層の街で華やかな祝祭広告を見ながらここへ来た自分が、今こうして廃墟で一羽の鳥に向き合っているのは、まるで生々しい悪夢のようでもあり、不思議な救いのようでもある。  アヤトは鳥から視線を外し、外の様子を探るように壊れかけの窓枠に目を向けた。薄ぼんやりとした光が差し込み、遠くから機械の低い唸りが響いている。ここでは朝日の代わりに、都市核の制御スケジュールに応じて空が色を変え始めるのだ。 「……外へ出るのか?」  アヤトがぽつりと訊ねた。リンカは一瞬きょとんとして、首を横に振る。 「いえ、今はまだ。あなたから聞きたいことがあるし、私も話したいし……」  アヤトは唇をかすかにゆがめる。 「そうか。なら、少しだけ奥に用がある。餌になるものを探さなきゃならないし、鳥の状態がもう少し良くなれば、何か栄養も与えないといけない」 「餌……ここで、どうやって手に入れるの?」  リンカが思わず問い返すと、アヤトは肩をすくめた。 「周辺にはまだ、小動物や虫がいる。あと、地下水路には魚の改変種が流れてくる場合もある。栄養剤の廃液が混じってるせいで危険だが、裏を返せば一部の生物はかえって異常に育つんだ。問題は、毒素がどう影響するか分からないってことだが……選り好みはできない」  その物騒な言葉を聞き、リンカはほんの少し背筋を震わせる。まるで別世界の話だ。仮想現実で描かれる“アポカリプス”さながらの光景が、ここでは現実の生存術として行われている。 「あなた、ずっとこんな生活を?」 「さあな。いつからか分からない。最初は研究のために出入りしてただけだったが……気づけば、こっちのほうが“本来の人間の姿”を教えてくれる気がしてな」  アヤトの口調にはどこか達観にも似た投げやりが混ざっている。リンカはその言葉の裏側に複雑な感情が潜んでいると感じるが、問いただすのは躊躇われた。  しばし無言のまま、埃だらけの事務所に冷たい風が吹き抜ける。机の上にはノート端末の残骸のようなものが積まれ、紙のメモとデータチップが雑多に散らばっている。リンカは興味を惹かれながらも、むやみに触れないように視線を逸らす。  やがて、アヤトは少しだけ思案するように言った。 「……俺はとりあえず餌を探してくる。お前はここにいてもいいし、ついてきてもいい。どちらにしても危険はある。だが、ここでじっとしていても退屈だろう」  リンカは返事に詰まった。確かに、このまま狭い部屋にこもっていては何も見えてこない。かといって、廃墟の外へひとりで出歩く度胸はない。そもそも自力で戻れる保証すら危うい。 「じゃあ、私も行くわ。せっかくこんなところまで来て放浪してるのに、部屋に閉じこもってるなんてもったいないし……」  言い終わる前に、アヤトは少しだけ眉をひそめる。リンカには危険を最小限にとどめたいのか、それとも彼女の覚悟を確認しているのか、その表情からは真意が読み取りづらい。 「あんたの足で大丈夫か? 夜じゃないぶんマシだが、あちこち崩落してるし、下水管の出口付近は嫌な連中が出る場合もある」 「まあ、覚悟はする。……覚悟できるかどうか、わからないけど、とにかく行くわ」  そう答えると、アヤトはわずかに息をつき、廃ビルのコート掛けに引っかけてあった布袋を手に取る。袋の中には、古びた金属製のロッドや捕獲用のネットが収まっているようだ。リンカはそれをまじまじと見つめ、かつて動物園の管理員が使っていた道具なのだろうかと想像を巡らせる。 「じゃあ、行くぞ。鳥の容体を考えると、なるべく急ぎたい。……お前は名前で呼んだほうがいいんだよな」 「リンカでいいわ。丁寧に呼んでもらうようなものでもないし」 「ああ……リンカ」  その響きを反芻するように繰り返し、アヤトは木箱を軽く振り返った。 「戻ってきたら温かいものでも飲ませたいが、ここにはろくな装備もない。状況によっては別の場所へ移す必要があるかもしれん」  リンカは黙ってうなずく。事務所を出る前に、鳥の入った木箱の周囲に小さな遮風壁を作り、毛布をかけ直した。廃材を多少動かして簡易の囲いをつくる。微々たる対策だが、ないよりはましだろう。部屋の隅から運び込んだ板切れを立てかけ、横風を防ぐようにする。アヤトは最小限の装備を整え、入り口に向かって歩き始めた。  扉を開けると、外の寒気が一気に襲いかかり、リンカは思わず肩をすくめる。都市核の光が薄く広がる曇天と、無数のビルの影が輪郭を滲ませる世界。そこに動物園の柵や朽ちた遊具のシルエットが入り交じり、なんとも陰鬱な風景を作り出している。 「じゃあ、どちらへ……」  リンカが尋ねかけると、アヤトは斜め後方を指し示した。 「そこからしばらく廃遊歩道を進む。その先に壊れた柵があって、地下水路へ降りる穴があるんだ。俺は魚類の改変種がいないか見てくる。それが無理なら、地上のあちこちにいる小動物を探す。危険なやつも多いから、慎重に行け」  言葉少なにそう告げられ、リンカはぎこちなく頷く。彼女自身、VR作家として想像上の“サバイバルシーン”を何度も描いたことはあれど、実際にこんな場所を歩くのは初めてだ。ビルの裏路地さえしっかり管理が行き届いていた上層街の暮らしでは、ここまで荒廃した場所はありえなかった。  廃園の遊歩道は、昨日の夜間に歩いた経路よりも一層荒れ、瓦礫や錆びた金属部品が散在している。植木の境界は枯れた雑草が生い茂り、よく見るとそこに隠れるように小動物の巣がいくつも作られていた。地面の亀裂には泥水が染み込んでおり、ところどころ腐臭が漂う。 「気をつけろ。毒性の苔みたいな胞子が出てる場所もある。踏むと厄介だ」  アヤトが先を歩きながら、低い声で警告する。リンカは足元に注意を払いながら、なるべくアヤトの通る場所と同じところを踏むようにする。風が吹き抜けるたび、錆びついた遊具が軋み、白茶けたペンキの剥がれた屋根の残骸が音を立ててこぼれ落ちていた。  薄暗い景色を抜けた先に、金網が崩壊しかけた柵が見えた。その奥に穴が開いていて、どうやらそこが地下水路へ繋がる入り口らしい。吹き込む風の湿り気が強く、足元に水が滲み出している。 「行くぞ」  アヤトは金網を軽く引き剝がし、リンカが通れる隙間を作ってくれる。リンカが身を屈めてくぐろうとした瞬間、ぬるりとした視線を感じた。何かが柵の奥からじっと自分たちを見ている――そう直感する。 「……アヤト?」  思わず緊張した声を出すと、アヤトも気配を察したのか、ロッドを握り直して目を凝らした。廃棄物が堆積した暗がりから、細く光る“眼”のようなものが二つ浮かんでいるのが見える。小型の動物か。  やがてそれは、ごそっと移動して柵の破れ目を横切るように逃げていった。かすかな毛皮のうねりが見えた気がする。アヤトは一瞬だけ警戒を解かずにいたが、すぐに息をついてロッドを下ろした。 「脅かすなよ……。この辺は変異したネコ科も出るから一応注意だ」  リンカは驚きで胸の鼓動が早まるのを覚えながらも、ほっと安堵する。人間を襲うほど凶暴な生物だったらどうしようかと思ったが、どうやら餌となりうる小動物ですら、こっちを警戒しているらしい。  二人は柵の穴を通り、朽ちた階段らしき段差を下っていく。そこを降りると地下水路の入り口が目の前に現れた。鉄扉が歪んでいて、内部からは奇妙な反響音がこだましている。どろりとした水の臭いに混ざり、何か腐ったような刺激臭が鼻をつく。  リンカは思わず顔をしかめる。こんな場所に本当に魚がいるのか――と思うより先に、底知れぬ闇が口を開けて待ち構えているのを感じ、背筋が寒くなる。 「行くぞ」  アヤトは袋から懐中ライトらしきものを取り出し、細い光を水路の中へ差し込む。すると、うごめくように水面がきらめき、小さな生物の群れが一斉に泳ぎ去るのが見えた。ライトに照らされた一瞬だけ、銀色にも青色にも見える鱗の光。確かに魚の群れのようだが、その形状は不自然に細長く、尾びれに棘のような突起が見えた。改変種――つまり、どこかの研究所か工場排水の結果、奇形化しながら生き延びているのだろう。  アヤトは肩越しにリンカへ小声で言う。 「もし捕まえられたら、炙ってやれば鳥の栄養になるかもしれない。毒素が少ない種類ならいいんだが……試すしかない」  リンカは頷くしかなかった。現実には、安全な食材が容易に手に入るわけでもない。この廃園での生存は、まるでシビアな自然界の縮図だ。  濃密な汚水の流れる水路に沿って、歩ける程度のコンクリート段差がある。アヤトはその上をゆっくり移動しながら、ネットを構える。リンカは怖々と足元を確かめつつ、懐中ライトの補助をする。水面には時々、ヌメッとした泡が浮かび、鼻につく悪臭が揺れ動いていた。 「……生きるって、こういうことなんだね」  無意識に呟いた言葉に、自分自身がはっとする。こんな感慨を抱くなんて想像もしていなかった。アヤトは横目でリンカを見たが、特に言葉は返さなかった。  ある地点まで進んだところで、アヤトが足を止め、ネットを水面に向かって素早く下ろす。ざばりという音とともに水が跳ね、何かが激しく抵抗しているのが分かる。 「……よし」  アヤトは手際よくネットを上げ、ピチピチ跳ねる生物を網ごと段差に放り投げた。見ると、痩せたナマズのような体躯に、胴体の脇から足のような突起が生えている。半透明な鱗に黒い斑点が散りばめられ、目も退化しているのか小さく曇っている。  リンカはその異形に息を呑む。都市の廃棄物と化学物質が絡み合い、生態系の歪みによって生まれた新たな生命体の姿。現実離れしているが、まぎれもなく“生”としてそこに存在している。 「これを……鳥に?」 「捌いて、危ない内臓を取り除けば、多少は大丈夫だろう。食べても毒死しない個体ならな」  アヤトは冷静な表情でその生物を観察し、手袋をはめた手で軽く叩いておとなしくさせる。リンカは網に絡まるその姿を見て、一種の嫌悪感と同時に強い興味が沸き起こるのを感じていた。自分が描いてきた仮想物語の“怪魚”たちが、まさに目の前で息づいているようだ。  アヤトは袋から蓋付きの小さなコンテナを取り出し、魚もどきの生物を入れて蓋をしっかりと閉めた。まだゴトゴトと音を立てて暴れているが、逃げ出すことはないだろう。 「もう少し探る。食べられるかどうか確かめるためにも、数匹は確保しておきたい」  そう言って再びネットを構えようとしたそのとき、水路の奥から不意に金属音が聞こえてきた。定期的なリズムではない。不意にカン、カン、と何かを叩くような音。 「誰か、いるの?」  リンカが緊張を含んだ声で尋ねると、アヤトは目を細め、音の方向を探った。数メートル先、闇の向こうに別の通路が合流しているらしい。ライトの光を投げかけるが、距離がありすぎてよく見えない。  音は小さく繰り返されている。一定の間隔もなく、まるで乱雑に金属をこすり合わせているような、あるいはパイプを打ち付けているような。ひと気のないはずのこの水路で、そんな音が響くのは異常だ。  アヤトは口の奥で息を呑むと、リンカに合図をしてそっと段差の壁へ身を寄せる。彼は小声で言った。 「ここに住み着いてる集団かもしれないし、あるいは他の違法活動かもしれない。慎重に行くぞ。やばそうならすぐ引き返す。分かったか?」  リンカは緊張のあまり喉が渇き、ただ黙って頷く。二人はライトを最小限に絞り、闇の壁に溶け込むようにして前進を始めた。  水面は薄く波紋を描き、天井のパイプからはときおり滴が落ちる。金属音は依然として、途切れがちに響いていた。近づくにつれ、何か低い唸り声のようなものも混じっている気がする。風の音か機械の振動かとも思ったが、どうもそれだけではなさそうだ。  やがて二人は、合流地点近くのコンクリ柱の裏に身を隠し、慎重に周囲をうかがった。そこから先は広めの空間になっており、水深が増しているのか、ところどころ小さな平台のようなものが浮いている。  微かな光が差しているのは、頭上に崩れた通気口があるせいだろう。そこからわずかに外気が入り込み、藻のようなものがパイプに絡みついている。  そして――薄明かりの先に、かすかに人影らしきものが立っていた。うずくまるような格好で、金属管を手にしている。人間なのかどうかすら疑わしいほど、ほとんど動かず、気味の悪い佇まいだった。 「……誰だ……?」  リンカは声にならない声を喉に引っかける。アヤトも表情を険しくしている。ここは下層のなかでもさらに外れ。こんな奥深く、誰もが避けるような地下水路に何の目的で?  やがてその人影が、持っていた金属管をコンクリ壁に叩きつけるように動かした。カン、カン、と断続的に音が響き、耳障りな反響が弧を描いて広がる。まるで合図を送っているか、あるいは何かを呼び寄せようとしているようにも見える。 「やばい気がする。近寄るのは得策じゃない。戻ろう」  アヤトが低く囁いた瞬間、その人影が唐突にこちらへ向けて顔を向けた。その顔は、ライトを当てていないのに妙に白く浮かび上がる。……いや、顔に何かを塗りたくっているのかもしれない。塗料か、汚れた包帯か。目だけがぎょろりと光を反射し、まるで亡霊のように歪んだ表情がうかがえた。  リンカは声を出すこともできず、固まる。相手は顔をかしげるように一瞬静止し、その後、舌打ちのような小さな音を立てた。そして再び金属管を勢いよく振り回し、強い衝撃音を響かせる。 「……まずい。逃げるぞ」  アヤトがリンカの腕をつかみ、身を翻して来た道を戻ろうとしたそのとき、後方からも別の人影がぬっと立ち現れた。水面をざわりと揺らして急接近してくる気配がする。ライトを向ける間もなく、何か鋭い物がコンクリ壁に当たって火花を散らした。 「くっ……!」  アヤトが素早くロッドを構えて防御の姿勢をとる。暗闇の中で激しい摩擦音が生まれ、リンカは衝撃で尻餅をつきそうになる。相手はやはり人間だろうか。だが、その反射速度や殺気は常軌を逸している。  声にならない唸りや笑い声のような音が耳をかすめ、リンカの手元が震える。相手はカバー付きの刃物を持っているようだ。狙いはアヤトか、それともリンカか。全身に嫌な汗が滲む。 「逃げるんだ、リンカ!」  アヤトが低く鋭い声を放ち、ロッドを振り払うと、金属同士がぶつかり高い火花を散らす。その隙にリンカは悲鳴を飲み込み、足をもつれさせながらも後ずさる。すると、今度は最初に見えた白い顔の人影が、横合いから柵を乗り越えるように動きを見せた。まるで出口を塞ぐつもりか。 「……まずい、逃路が…」  頭が真っ白になる。ここで捕まったら何をされるか分からない。勧善懲悪の物語とは違う、現実の怖さが骨の芯まで染み込む。リンカは背後を振り返りつつ、一瞬の思考で周囲を探した。  水路の側壁には、経年劣化した排水管が並んでいる。その上方に小さな通気口があり、そこから先ほどの薄明かりが差し込んでいたはずだ。あれが外に繋がっているかどうか……賭けるしかない。 「アヤト、あそこ……!」  リンカが指を伸ばすと、アヤトは一瞬周囲を見渡し、すぐに判断したようにうなずく。相手は二人以上いる。戦って勝ち目があるのかどうか分からない。退路さえ確保できれば――アヤトは胸中で何かを決めたのか、金属ロッドで相手の刃を横へ払い、一気にリンカのほうへ身を寄せた。 「走れ! あの排水管を伝って上に行くんだ!」  リンカは必死に脚を動かす。コンクリ段差で足を滑らせそうになるが、どうにか踏みとどまり、パイプが縦横に走る壁をよじ登る。  その直後、背後でアヤトのロッドが鈍い音を立てて相手の武器を弾き飛ばした。視線の端に、一瞬だけ刃が光を返すのが見える。相手の表情は相変わらず判別しづらいが、唇を引きつらせて何事か呟いているようだった。言葉なのか呻き声なのか分からない。 「早く、先に行け! 俺もすぐ行く!」  アヤトの叫びに、リンカは必死に排水管をつかみ、狭い通気口に体をねじ込む。薄暗いトンネルのような狭さ。心臓がぎゅうっと圧迫される。脚を滑らせたらそのまま下に転落してしまうだろう。息を詰めながら、懸命に腕を伸ばし、肘と膝を使って少しずつ身体を引き上げる。  その間、背後で衝撃音が連続し、アヤトの短い叫びと何者かの金切り声が入り混じって聞こえる。リンカは恐怖で涙が滲みそうになるが、ここで立ち止まるわけにはいかないと奮い立つ。  ようやく頭が通気口の出口らしき場所に届き、わずかな外光が差し込んでいるのを確認した。埃まみれのパイプを掴み、強く身体を引き上げる。そして何とか上体を隙間から出すと、硬いアスファルトかコンクリの地面に手を伸ばす。 「……あと少し……!」  リンカはほとんど自分の体重を腕にかけ、腹ばいになるように地面へ這い出す。さらに腰をひねって片足を引き上げ、ようやく排水口の縁に全身を持ち上げた。息が切れ、体中の筋肉が悲鳴をあげている。  そこは閑散とした裏路地だった。どこか下層の商業街区に近い場所なのか、壊れたシャッターが目立つ建物がいくつか並んでいる。人の気配は薄いが、完全な廃墟でもなさそうだ。 「アヤト……!」  振り返って呼びかけるが、通気口は真っ暗だ。まだ追ってくる気配があるのか、彼の姿が見えない。リンカは胸が張り裂けそうな不安に襲われ、もう一度叫ぶ。 「アヤト! 大丈夫……!? 返事して……!」  次の瞬間、排水口の内部でガンッ、と鋭い衝撃音が響き渡った。リンカは思わず飛びのきそうになる。暗闇の奥から、かすかな金属の擦れる音。そして、低い息のような声が聞こえた。  しばらくして、アヤトの片腕が通気口から突き出る。彼は肩で激しく息をしながら、必死に上半身を押し上げているようだ。リンカは慌てて駆け寄り、彼の腕をつかんで力いっぱい引っ張った。 「くっ……」  アヤトの苦悶の声。通気口の縁を乗り越えようとするが、力がうまく入らないのか、脚を上げるときに痛みで体勢を崩しかける。それでもどうにかリンカの引っ張る力で身体を引き出し、最後には勢いよく転がり出るように地面へ倒れこんだ。  リンカは彼の脇に身を寄せ、慌てて顔を覗き込む。胸元が大きく上下し、額に冷や汗が浮かんでいる。服がところどころ裂け、袖口から血がにじんでいた。 「大丈夫……? 怪我、してるよ!」 「ああ……、かすった程度だ。深手じゃない……」  アヤトは苦しそうに言いながら、かろうじて上体を起こす。刃物で斬られたか、あるいは鉄パイプか何かで殴られたのか、腕に走る血痕が赤黒い染みとなってシャツに広がっている。その痛々しい姿に、リンカは震える手で布を探した。バッグの中から予備のハンカチを出し、アヤトの腕にきつく当てて止血を試みる。 「ごめん、私が足手まといに……」 「謝るな。……お前がいなきゃ、こっちはとっくにやられてた。そういう奴らがいるのは知ってたが、まさかここまで入り込んでるとは思わなかった……」  アヤトは息を荒げながら、あたりを見回す。まだ追ってくる者はいないようだが、油断はできない。周囲の建物はどれも老朽化が進んでいるようで、ドアやシャッターは固く閉ざされている。入り込む場所はなさそうだ。  リンカはなんとかハンカチをきつく押さえ、アヤトの腕を支えた。痛みで歯を食いしばる彼に、声をかける。 「少し離れたところに、どこか隠れられる場所は……」 「……わからん。今は……動物園に戻るのも危険だろうな。あいつらが追ってきてるかもしれない。……くそ、鳥はどうする……」  アヤトは苛立ちを押し殺すように唇を噛む。昨日まで“比較的安全”と思っていた廃園に、あんな連中が出入りしているとすれば、もうあの場所に戻るのも命がけだ。鳥を放置したまま逃げるのか、それとも戻って救い出すのか――。だが、アヤト自身がこの怪我だ。正面からぶつかったら勝ち目は薄い。 「……どうすれば……」  リンカは凍りつくような思考の中で考えを巡らせる。脈打つ鼓動は速く、視界がちらつく。こんなに恐ろしい体験は生まれて初めてだった。今まで築き上げてきた創作家としての自負や、上層の安寧な暮らしが、一瞬にして崩れ去る。ただ生き延びるための最適解は、いったい何なのか。  深い吐息とともにアヤトは腕を押さえ、低く言った。 「……仕方ない。まだ勝手がわかる“あの場所”に行く。そこなら応急処置はできるし、情報も……」 「“あの場所”って、どこ?」  リンカが問い返すと、アヤトは目を伏せる。明らかに気が進まない様子だが、選択肢が残されていないのだろう。 「地下区画にある共同体。俺の研究が生まれた一端を担った連中だ。……ただ、行けば多分、歓迎されない」  リンカは一瞬言葉を失う。昨日、ちらりとアヤトが口にしていた「利他主義を信奉する集団」のことだろうか。下手をすれば、そこもまた危険地帯かもしれない。でも、このまま廃園に戻る選択はリスクが高い。  傷口からじわりと血がにじみ出すアヤトを見て、リンカは唇を結んだ。 「……わかった。どのみち、このまま逃げ回っても拉致があかない。あなたが無事に治療できるなら、そこへ行くしかないわね」  アヤトは暗い表情でうなずき、壁を支えにゆっくりと立ち上がった。痛む腕をかばいながら、彼は歯を食いしばって歩き出す。リンカも慌てて隣に並び、彼の身体を支えるように歩調を合わせた。  ――こうして二人は、追われるようにして地下共同体へと向かうことになる。廃墟の動物園に残された鳥のことが胸に引っかかりながらも、今はただ、この混沌から逃れる術を模索するしかない。  街の暗がりが沈黙を保ちつつ、どこかでざわめきを蠢かせている。 ---  路地を抜けると、視界がわずかに開けた。かつて商業地区だったのか、壊れたショーウィンドウや焦げた看板が連なる通りが見える。曇天の下で色彩を失った街並みは、どこか朽ちた舞台装置のようにも映る。  アヤトは腕の痛みに耐えながら、辛うじてまっすぐ歩いているが、呼吸は乱れ、唇も少し紫がかっている。リンカが脇に肩を差し入れて支えようとすると、彼は一瞬迷ったような表情を見せ、それから軽く頷いた。無言の了解。傷を負った体で意地を張る状況ではない。 「あなた、本当に大丈夫?」  声を低くかけると、アヤトはわずかに肩をすくめた。 「大丈夫かどうか判断するのは、まだ先だ……。出血が止まればいいが」  リンカは止血用に使ったハンカチを気にしながら歩調を合わせる。布はすでに赤黒く滲んでいるが、どうにか血は大きく広がらずに済んでいるようだ。  周囲の建物は、下層にありがちな違法改装の跡が目立つ。窓や扉の下半分をコンクリートで塞ぎ、残りを鉄板で補強しているものが多い。災害や暴力から守るための即席バリケードなのだろう。  路地の両脇は廃材やゴミの山が積まれ、通りには日常生活を匂わせるものがほとんど見当たらない。人の気配は薄く、あっても何かの視線がこちらをうかがっているような、不穏な“目”の存在を感じるだけだ。  やがてアヤトが、細い路地のさらに奥にある横道を選んだ。折れ曲がった電柱やケーブルが頭上で絡まり合い、こちらを拒むように覆いかぶさっている。リンカは懐中ライトの明かりを引き絞りながら、その暗がりを進んだ。 「本当にこの先に“地下共同体”ってのがあるの?」  問いかけると、アヤトは長い息をつく。 「正確には、地下へ降りる入口がいくつもある。エンロクと呼ばれる人物が率いている共同体だ。……ただし、そいつらの思想は普通の人間には理解できないかもしれない。いや、理解したくないかもな」 「普通じゃないって、どういう……」 「行けば分かる。俺自身、その一端を担ったんだ」  彼の声には後悔とも苛立ちともつかない感情が滲む。昨夜の会話でほんの端緒だけ聞いた“利他主義の共同体”――それがどんな場所なのか、リンカには想像も及ばない。  角を曲がると、アスファルトが剥がれた地面が急傾斜で崩れ落ち、崖のように下層へむき出しになっている。そこには鉄骨やコンクリ破片が積み上がり、仮設の足場が組まれていた。昇降しようと思えば可能だが、かなり危険な造りだ。 「もし足を踏み外せば、十数メートルは落ちるな。下は排水路。運がよければ水に落ちるが、最悪の場合は……」  言葉を濁すアヤト。リンカは足をすくませそうになるが、退路はもはやここしかない。後ろを振り返ると、霞むように続く道があるだけ。仮に戻っても、あの得体の知れない連中に遭遇するリスクを考えると、前へ進むほうがまだ可能性が高い。  アヤトが先に足場へ降り、リンカはその後を追う。鉄骨が軋み、ガラガラと砂利や破片が落ちる音がするたび、心臓が跳ねる。アヤトの腕の止血帯がずれないよう、リンカはそっと腕を支えつつ、慎重に足を進めた。  ふと見下ろすと、下層の闇に、点のような明かりが幾つか滲んでいる。誰かが住んでいるのか、あるいは配線を勝手に繋いでいるのか。濃密な煤と埃が漂う空間は、まるで深海のように閉鎖的だった。 「あと少し……気をつけろ」  アヤトが警告する。最後の踏み板を越えた先、傾いた配管の向こうに格子戸らしき扉が見えた。そこには古い文字が塗料で書かれており、一部は削れて読めないが、どうやら「緊急避難口」を意味する言葉の名残のようだ。  薄暗いランプの下、アヤトが扉を叩く。響く金属音が何重にも反響し、耳障りなほど甲高い。待っていると、扉の裏側から、かすかな金属の擦れるような音がした。 「誰だ」  低い声が響く。アヤトは自身の名を名乗り、続けてリンカの存在をちらりと示すように言う。すると、少し間をおいてから、錆びた扉がぎしりと開く。暗闇の向こうに何人かの影が立っているが、そのうちのひとりが前に出てきた。 「……カミナ、アヤト……随分と久しいな」  驚きなのか嫌悪なのか、複雑な感情が混じった声。黒っぽい頭巾のようなものを被った男が、アヤトを見据えている。その横には二人の仲間らしき人物が控え、油断のならない眼差しを向けてきた。 「悪いが、通してほしい。怪我をしているんだ。応急処置をしたい」  アヤトが腕を抑えてそう言うと、頭巾の男はわずかに顎を引き、身を引いた。 「ここは“エンロク”の保護下にある。お前が来るとは思わなかったが……どんな理由であれ、怪我人は放置できない。入れ」  リンカは緊張した面持ちでアヤトを支え、足を踏み入れた。扉の内側は意外と広く、奥へ延びる通路には薄暗い照明がともっている。スチール棚や雑多な物資が詰まれているのが見え、かすかに何か煮炊きしたような匂いも漂っていた。 「それはお前の客人か?」  頭巾の男がリンカに目をやる。言葉は丁寧とも失礼ともつかない平坦な響きだが、その眼光は鋭い。リンカは反射的に姿勢を正して答える。 「リンカ……ナギサといいます。上層の街から……アヤトさんを助けるために、というか、いろいろ事情があって……」  すると、男は微かに唇の端を動かし、鼻で息をつくように笑った。 「上層から? ずいぶんと奇特な客人だ。ま、いい。とにかく“エンロク”に会う前に、その怪我の手当てをしろ。わしらの信条では、助けを求めてくる者を拒む理由はない」  男の横にいた仲間のひとりが手招きし、二人を奥の区画へ誘導する。短い通路を抜けると、やや広めのスペースに出た。そこには簡易な医療設備と見られる道具がいくつか並び、壁際には布団のようなものが何枚も敷かれている。飲食用のポットや調味料らしき瓶も転がっていた。  まだ数名の人々がそこに集まっており、皆一様に質素な服装をしている。上層のような華やかさはないが、誰もが落ち着いた雰囲気で作業をしていた。こちらに気づくと数人が顔を上げる。 「怪我人が来た。手当てをする」  先頭の男がそう言うと、細身の女性が立ち上がり、医療キットと思われる箱を手元に引き寄せた。彼女は淡々とした表情でアヤトの腕を確かめ、怪我の程度を診る。リンカは心配そうに隣で見守りつつ、あたりの人々をちらりと見回す。皆、硬い表情で黙々と動いている。敵意は感じないが、よそ者を警戒する空気は伝わってきた。 「あまりひどくはないが、縫合が必要かもしれない。毒やバイ菌の混入も怖い。いったいどこでこんな傷を?」  女性がさりげなく尋ねる。アヤトは苦い顔をして答えた。 「連中に襲われた。廃園の地下水路で……」  彼女は言葉を飲み込んだように、わずかに眉を寄せるだけでそれ以上聞かなかった。きっと、このあたりには“物騒な集団”がいることは周知の事実なのだろう。  リンカは抑えきれない不安が胸を締めつける。鳥を置き去りにしてきた廃園のことも気にかかるが、今はまずアヤトの傷をどうにかしなければ。 「私、手伝えることは……」  口を開くと、女性はそっけなく首を横に振った。 「気持ちはありがたいけど、慣れていない手は要らない。そこに座って待ってなさい」  リンカは釈然としないまま、一段高くなった土嚢のような場所に腰を下ろす。やがて男性たちがカーテン代わりの布を垂らし、最低限のプライバシーを作りながら治療が始まった。アルコールの匂いと金属器具の触れ合う音、アヤトが時おり息を詰める気配が伝わってくる。  周囲を見渡すと、空調の音もなく、ひっそりと静まり返っている。かすかな灯りに揺れる人々の影は、どこか宗教施設のような厳かさをまとっていた。  そのとき、男の落ち着いた声が背後からかかった。先ほど扉を開けた“頭巾の男”とは別人だ。年のころは三十代か四十代か、ほとんど無表情といっていいほどの面持ちだが、瞳には異様な光を帯びている。 「あなたは、リンカ……と仰いましたね。お連れさんは治療中だ。こっちで少し話しましょうか」  促されるまま通路の奥へ進むと、小さなスペースに机が置かれ、積み上げられたファイルや地図らしき紙が見える。乾いた土と錆びの臭いが混ざり、息をするたびに肺が重くなるような感覚がする。  男は腰掛けるよう促したが、リンカは立ったまま、その人物を見据えた。声には出さないが「あなたは誰?」という視線を送る。すると男は微かに口元を緩める。 「エンロク……と呼ばれる存在の代理の者です。まだ名乗れる身分ではありません。あなたが上層の方と伺いましたが、どんなご用向きで?」  先ほどの頭巾の男との違いは、その穏やかさだ。声も落ち着き、言葉も柔らかい。だが妙に冷徹な雰囲気があり、リンカは居心地の悪さを覚える。 「私自身、特別な用向きがあって来たわけじゃありません。アヤトさんと……話をしようと思って。それだけです」 「そうですか。それでもあなたはここへ迷い込んだ。今のご様子では、かなり危険な目に遭われたとか。ここは“利他”の精神を基盤にした共同体なので、必要とあらば助けは惜しみません。しかし、外部の方を歓迎するわけでもありません。あなたが滞在を希望するなら、それなりの約束事を守っていただく必要があります」  その言い回しは、見事なほど曖昧かつ制約をにおわせるものだった。リンカは何か言い返そうと思ったが、今はアヤトの治療が最優先。尖った態度を取って追い返されるのは避けたい。 「わかりました。もちろんお世話になるつもりなら、そのルールは尊重します。でも、私たちはただ通りがかっただけなので、あまり長居することもないと思います」  そう言うと、男は薄い笑みを浮かべた。瞳だけが奇妙に笑っていない。 「そうかもしれませんね。……ところで、あなたは“リンカ・ナギサ”という名で作品を世に出している方では?」  リンカは一瞬言葉を失う。どうしてこんな地下共同体の住人が自分の作品を知っている? VR作品は上層や中層でこそ大衆化しているが、下層ではあまり実用インフラが整っていないはずだ。 「知ってるの……?」  尋ね返すと、男は淡々と頷く。 「我々の仲間にもあなたの作品を観賞した人間がいる。人はどんな場所でも、娯楽を欲するものですからね。あなたの“共感を紡ぐ技術”は興味深い。人の感情を操る構造がそこにあると、我々は認識しています。だからこそ、それが本当はどれほど“利他的”かを測りたくなるわけだ」  どこか刺のある言い回し。リンカは不意に胸がざわつく。自分の作品が大量消費され、“安易な感動”を与えるだけのものになっているという疑念は、彼女自身が抱えていたコンプレックスでもある。 「それは……私自身もまだ答えが見つからない。ただ、人の心を揺さぶる物語って、何か役に立つと思いたくて作ってるの」  自分でも説得力のない言葉だとわかっていたが、男はそれ以上つっこむことなく軽く首を振る。 「あなたはそう言う。しかし、人間は自分の利益や欲求を隠すのが上手い生き物だ。ここは“偽善”を糾弾する場所ではないが、利他的であるかのように装う行為ほど危ういものはありません。ご理解いただけると助かります」  空気が沈む。リンカはわずかに唇をかみ、視線を落とした。男が言葉を続けようとした矢先、治療スペースのほうで物音がして、アヤトが姿を見せる。  止血と処置が終わったのか、腕には包帯が巻かれ、消毒液の匂いが漂っている。顔色はまだ悪いが、どうにか歩けるようだ。後ろからは先ほどの細身の女性がついてきて、簡単な説明をアヤトにしている。  男はアヤトの姿を認めると、リンカへの言葉を打ち切り、スッと表情を和らげた――少なくとも、そう装ってみせた。 「治療はうまくいったようですね。よかった。アヤトさん、そちらの痛みはいかがですか?」  アヤトはまっすぐ男を見返す。反発の色も諦めの色も混ざった複雑な眼差し。 「おかげで助かった。ありがとう。そして“エンロク”に伝えてほしい。俺がここに来たのは……後悔を告白しに来たわけじゃない、と」  男は薄い笑みを浮かべたまま、意味深に頷いた。 「ええ、承知しています。あなたがお戻りになるのを、あの方も内心予期していたのかもしれません。いずれ直に会ってもらえるでしょう。今は休んで傷を落ち着かせてください」  そう言うと、男は奥の通路へと消えていった。足音はほとんど立てず、まるで影が滑るような静かさだった。  リンカはアヤトのそばへ駆け寄る。巻かれた包帯の一部がまだ湿っているが、深刻な出血はなさそうだ。 「大丈夫? 痛みは……」  アヤトは顔をゆがめながら小さく息を吐く。 「ああ……骨まではいってない。多少不自由だが動かせる。あとは化膿しないようにしなきゃいけないな。……すまない、巻き込んだな」  リンカは首を振る。 「私こそ助けてもらった。あなたがいなければ、あの地下水路でどうなっていたか……」  しばし目を合わせ、互いに安堵の息をつく。周囲にいる共同体の人々は、ちらりとこちらを窺う程度で、特に近寄ってくる様子はない。その距離感が独特で、リンカは少し胸騒ぎを覚える。まるで互いに干渉し合わないことを徹底しているかのようだ。  アヤトは痛む腕をかばいながら視線をめぐらし、やがて細身の女性を見つめて問いかけた。 「エンロクはまだここに? 昔と変わらず……?」  女性は短く答える。 「ええ、彼は奥に。あなたが落ち着いたらすぐ顔を合わせることになるでしょう。今は他のメンバーとミーティング中です」  アヤトは目を伏せ、リンカに視線を送った。二人の目が合い、リンカは曖昧に頷くしかない。  ――やがて自分たちは、この共同体を率いる“エンロク”という人物と対峙しなくてはならない。アヤトが過去に何をやったのか、どんな関係があったのか。聞けば聞くほど、ここにはただならぬ因縁が潜んでいそうだった。 「……休む間もなく、俺たちは嵐の中心へ行くことになるかもな」  アヤトが自嘲気味につぶやく。リンカは密かな不安を押し込めて、ゆっくり呼吸を整えた。 「私も行くわ。ここまで来たんだから、途中で逃げ出すわけにはいかない」  そう呟いた彼女の耳に、ふと廃墟に残してきた傷ついた鳥の記憶が蘇る。それは今も生きているのだろうか。どこかで叫び声を上げているかもしれない。その姿を想像すると、胸が締め付けられる。  しかし、この共同体での会話が一筋縄でいくとも思えない。言葉少なに動く人影たちの間に漂う空気は、ほかの下層住民のものとも違う、妙に統制された厳粛な匂いがした。 ---  独特の静寂が漂う共同体の奥の区画に通されると、足元には薄い敷物が敷かれ、むき出しのコンクリートや土嚢が目立つ空間が広がっていた。狭い通路の両側には、簡易な仕切りがいくつも並び、そこが人々の居住スペースになっているらしい。中には幼い子どもの声がかすかに聞こえ、何やら手仕事のための木材や工具が積まれている区画もあった。  アヤトとリンカは、先ほど対面した“代理”の男に先導されて、人々の視線を背に歩を進める。周囲の者たちは特に声をかけてくるわけでもなく、ただ静かに見送っているだけ。しかし、その無関心にも見える態度の底には、異質なものに対する緊張感のようなものが滲んでいた。  通路の奥に古ぼけた鋼鉄製の扉があり、そこを通ると、やや広い空間に出る。そこには書類や古いモニタ端末が積まれた机が置かれ、照明も幾分明るい。壁面には何かの地図らしきものが貼り付けられており、都市の構造を示す無数の線が入り組んで走っていた。地下水路や廃道、そして複雑に縦横へ延びる立体経路が示されているようだ。  そして、その机の後ろに立つ人影が、こちらを振り返る。厚手のコートを着込んだ長身で、頭髪はごく短く刈り込まれた男。先ほどアヤトたちを案内した“代理”よりも、さらに静かな気配を宿している。鏡のように感情を映さない瞳は、強く、冷たい光を帯びていた。 「……エンロク」  アヤトが低く呼びかけると、男は短い肯定の息を吐いた。 「来たか、アヤト。思ったより早かったな」  声は低く抑えられているが、その響きには奇妙な圧迫感がある。カリスマ性の片鱗、と言ってよいのかもしれない。リンカは彼の声を聞いた瞬間、肌がかすかに粟立つのを感じた。  エンロクと呼ばれた男は、机に両手をつく姿勢のまま、じっと二人を見据える。血の気の感じられない頬、まるで彫刻じみた輪郭。年齢は不詳だが、アヤトより上なのは明らかだった。 「腕を痛めたと聞いた。治療を受けたそうだな」 「余計な世話だったか?」  アヤトが短く応じると、エンロクはかすかに口角を上げる。笑っているのか、嘲りなのか、その区別がつかない。 「いいや。誰かが傷ついているなら治療する。それがここでの“原則”だ。お前がどう思おうと関係ない」  舌鋒は強いが、エンロクの声は感情の起伏に乏しい。アヤトは淡々とそれを受け止めながら、リンカを軽く振り返った。 「彼が“エンロク”と呼ばれる共同体の主宰者だよ」  リンカは息を整え、頭を下げるように軽く会釈する。するとエンロクの視線がリンカをひと撫でするように通り過ぎた。 「……上層から来たそうだな。奇妙な巡り合わせだ。ここへ何を求めに来た?」  彼の問いには冷ややかな色がこもる。リンカは一瞬、何を言えばいいか迷うが、素直に答えた。 「私自身はただ、アヤトさんの行く先に同行しているだけです。自分の物語を見つけたい、というのが正直なところかもしれません」  エンロクは興味を示したのか、机から身を起こし、ゆっくりとリンカへ近づく。コートの襟元から覗く首筋の筋肉が張りつめていて、生身の獣を思わせる威圧感がある。 「物語、か。人はいつも、自分が納得できる“物語”を欲する。それは利他的行為の根拠ともなるし、あるいは利己的な欲求を覆い隠す方便にもなる。……お前はどちらだ?」  リンカは返答に詰まり、アヤトを横目に見る。アヤトもどう言葉を挟めばよいか決めかねている様子だ。 「私もまだ、答えはわからないの。ただ、あなたたちの言う“利他”がどんな形をしているのか、それが見てみたい」  そう答えると、エンロクの唇がほんのわずかだけ歪んだ。笑みなのか不明なまま、彼は指先で机の端をコツ、と叩く。 「ここは“共存”のための場だ。資本と承認欲求を糧に互いを食い合う上層社会とは違う。……だが、お前たち外部から見れば、これもまた同じような“ゲーム”に見えるかもしれないな」  そこでアヤトが小さく息を吐き、横から言葉を挟む。 「……ここに長く滞在するつもりはない。俺はあくまで傷の手当てと、いくつか確認したいことがあって来ただけだ。手短に済むならそれがいい。リンカも、深入りしたいわけじゃないはずだ」  そう言いながらも、アヤトの声にはどこか迷いが混じる。自分がかつて関わった“協同体”の実態を、もう一度この目で確かめてみたいという衝動があるのだろう。  一方、エンロクは彼の言葉には答えず、薄く笑みをたたえたまま、視線を宙へ泳がせる。続けて口を開いたとき、まるで誰に向かって話しているのか分からないほど、低く、しかし染み入るような声だった。 「カミナ、アヤト。お前はここで“進化的利他主義”の理想を追求していた時期がある。忘れたとは言わせない。私たちは今も、お前が設計した理論を基に、一つの実験を続けているのだからな」  リンカはエンロクの言葉に息を呑んだ。“実験”と呼ばれるものが何を示しているのか、彼女にはまだ理解できなかったが、それがこの共同体の核に触れるものであることは間違いないように思えた。  アヤトは唇を噛み、苦い表情で少しうつむく。 「……そんな理想論は、結局うまくいかなかった。今の都市のシステムが歪んだ形で運用されているのも、その帰結だ。俺の責任もある。だからこそ、俺は研究を捨てて逃げた」 「逃げた――だが、こうして戻ってきた」  エンロクの声はどこか挑発的だ。だが、怒りや感情的な揺らぎは感じられない。むしろ静かすぎるほど静かで、それがかえって不気味だった。  沈黙が降りる。リンカは息を詰めたまま、二人の間に走る鋭い緊張を感じ取る。追い詰められたようなアヤトと、全てを見通しているようなエンロク。ある種の因縁が、この空間を支配していた。  やがてエンロクは机の端に置いてあった錆びた鍵束を手に取り、それを指先でもてあそぶようにかしゃかしゃと音を立てた。 「ともかく、お前たちが滞在する限り、私たちの規律を破る行為は許されない。安全を保障する代わりに、こちらの指示にも従ってもらう。怪我が完治するまでは、どうせ満足に動けまい。……お前にはいずれ、私たちの“核”を見てもらうことになるだろう」 「“核”……?」  リンカが反射的に問いかけると、エンロクは静かに首を横に振った。 「そう急かすな。時期が来れば分かる」  その言葉と同時に、扉の向こうで小さな騒音が起こった。誰かが足早にやってきたのか、金属製の床がきしむ音が近づき、やがて“代理”の男が姿を現す。彼は少し慌てた様子でエンロクの耳元に何か囁いた。  エンロクは眉をわずかに動かすと、鍵束を音もなく机に置き、アヤトとリンカに目を戻す。 「少し問題が起きたらしい。今はここまでだ。……二人には休息できる場所を用意しよう。私も後ほど改めて時間をとるつもりだ」  言い終わると、彼は代理の男とともに足音を立てずに部屋を出て行く。その背中を見送るうちに、リンカはここが既に日常の空気ではないことを痛感する。助けを借りるには、あまりに不透明な共同体。穏やかだが、一触即発のような緊張感が潜んでいる。 「……行ったか」  アヤトが弱々しく息を吐く。包帯を巻いた腕をかばいながら、壁際の古い椅子にどさりと腰を下ろす。リンカもそばに立ったまま、彼の顔色をうかがう。 「大丈夫? さっきより血の気が失せてるように見える」 「……悪いな、少し休みたい。正直、痛みと疲労が一度に襲ってきた感じだ」  リンカは軽く頷き、椅子の背を支えるようにそっとアヤトの肩に触れた。仄かに汗と鉄錆びが混じったにおいが鼻をかすめる。この共同体の空気がそうさせるのか、彼の呼吸は少し乱れがちだ。  部屋の奥に控えていた別の男が近づき、「こちらへ」と声をかける。宿舎のような場所を提供してくれるらしい。リンカは感謝を示すべきか迷いながら、ともかく頭を下げる。 「ついてきてください。場所は狭いですが、床で横になるくらいはできます」  案内役は感情の起伏が乏しく、極めて事務的な態度に終始している。人々の言動すべてに、どこか自発性より“義務”を感じさせる雰囲気が漂っているのが気になった。だが、今は少しでも休息をとれるならそれに越したことはない。リンカはアヤトを支え、ゆっくり歩き出す。  通路を曲がるたびに、簡易ベッドや調理器具などが置かれた小部屋が散在している光景が垣間見える。昔の倉庫や地下貯蔵施設を改造したような、雑然としたスペースだ。壁面には薄汚れた布や断熱シートが掛けられ、最低限の生活空間として体裁は整えられている。 「ここです」  案内役が指し示す扉を開けると、狭いがランプの灯った部屋が現れる。敷布が敷かれただけの粗末な“寝床”と、小さな折りたたみテーブルがあるだけ。リンカはアヤトを支えながら、その敷布の端へと導いた。 「狭いが寝返りくらいは打てるだろう。少なくとも、外よりは安全だ」  男はやはり抑揚のない口調で言い、部屋の出口近くに据え付けられたランプを少し調整して光量を落とした。 「食料は後で運ぶ。水は隣のタンク室にある。使いたいときは声をかけてくれ」  そう言い残して男は出て行く。扉が閉まり、やや湿った空気が部屋を満たす。隙間風の音すら感じない静けさ。リンカはようやくアヤトを横にさせ、彼の包帯の具合を確かめた。 「……少しずれてる。大丈夫?」  アヤトは何とか笑おうとするが、それは半ば苦痛の歪みに変わる。 「痛みは増してる。だが、いまさら誰かに助けを呼ぶのも気が進まない。夜まで持ちこたえれば、また様子を見よう」  リンカは自分のコートを外し、たたんで枕のようにアヤトの頭の下へ敷いた。こんな劣悪な環境で、炎症を起こさないようにするのは至難だろう。 「あなたが寝ている間、私ができるだけ見張ってるから。何かあったら起こすわ」  そう言ってランプの光を少しだけ絞り、隅の方に腰を下ろす。アヤトは浅い呼吸を繰り返しながら、うっすらと目を閉じる。深刻なほどの消耗が伝わってくる。 「リンカ……」 「なに?」  彼が小さく呟くので耳を傾けると、その声はかすかに震えていた。 「もし……ここが危ないと感じたら……すぐに逃げろ。俺のせいで巻き込まれたお前が……二度と戻れなくなるのは、あまりに……」 「馬鹿なこと言わないで」  リンカは静かにかぶりを振る。 「いっしょに抜け出す方法を考えるわ。それまで私にだって諦めるつもりはない。あなたがそうしろって言っても、聞かないから」  アヤトは返事をする気力もなくなったのか、小さな苦笑のような吐息を漏らす。そして、やがて微かな寝息に変わっていく。  リンカは暗がりのなか、ランプの弱い光を頼りに天井を見やる。むき出しの配管やコンクリートの接ぎ目が、複雑な影を落としていた。どこかから水滴の音がかすかに響くたび、さっき見た地下水路の悪夢が脳裏に蘇る。  外には不確かな闇が渦を巻き、内部には“利他”を掲げる謎めいた共同体が存在していた。エンロクという人物は、アヤトが研究を通じて築いた理論を実践していると言うが、それは一体何なのか。  ――とても“すべてが善意”とは思えない。まるで見えない網に絡め取られるような感覚。今は腕を負傷したアヤトを連れて逃げる術など考えられないが、こんな場所に長居すれば、いずれ大きな危険が襲ってくるかもしれない。  リンカは不安に心を支配されぬよう、自分が今ここにいる理由を噛みしめる。物語を求めて、空虚を埋めるために。けれど、あまりに生々しい現実が押し寄せる中で、そんな動機はお題目に過ぎないのでは――という疑念すら頭をもたげてくる。  静寂のなか、アヤトの寝息だけが一定のリズムを刻む。リンカはそのリズムに耳を澄ませ、彼の呼吸が平穏を保っていることを確認すると、身体のこわばりをほぐして壁にもたれかかる。  いつの間にか、疲れと恐怖が重なり合い、瞼が重くなっていく。視界の端でランプの光がちかちかと揺らめき、意識は暗闇に絡めとられるように落ちていく。  ――遠いどこかで、動物園の鳥が弱々しい声で鳴いているような幻聴が聞こえた気がした。そこには満足に動けない体で、必死に生を求める小さな命がある。廃墟の檻の奥に取り残され、飼育員もいない、医療もない世界に。リンカの胸がチクリと痛む。  けれど、ほんの一瞬で眠気がすべてを奪い、意識は闇へ沈んだ。部屋にはかすかな風のうねりが漂い、どこからか機械が動く低い振動が伝わってくる。  死んだように静かな共同体の地下。眠りの淵で、リンカは不吉な夢の予感にとらわれながら、それでもどうしようもなく疲労と放心に呑まれていった。 --- 第二章  暗闇を追い払うように、鈍色の光が部屋の壁にじわりと広がっていく。外界と隔絶されたこの共同体でも、定期的に照明の明るさが制御されるらしく、どこか人工的な“朝”の到来を告げているようだった。湿り気を含んだ空気がわずかに動き、寝静まっていた区画にかすかな活気が滲み始める。  リンカは目覚めた瞬間、ひどく重い疲労感に襲われた。昨晩の出来事がすべて現実だったことを、身体のだるさと精神の緊張が改めて告げる。壁の向こうにかすかな人の足音が行き交い、しかしお互いに口数は少ないようだ。どこからか軽く金属を打つような音が定期的に聞こえているが、それが何の作業なのかは分からない。  敷布の反対側に寝かせていたアヤトを窺うと、彼は浅い眠りのまま横たわっていた。包帯の巻かれた腕のあたりがうずくのか、ときおり眉をひそめて苦しげな息を漏らす。それでも血の滲みは昨晩より増えていないようだ。どうにか炎症を起こさずに済んでいるのかもしれない。  リンカはそっと身体を起こし、暗い室内で周囲を見回す。室内に窓はないが、扉の隙間から少し白い光が差し込んでいる。そこから漏れる人の気配に耳を澄ましていると、不意に扉がスライドする音がした。 「起きていたのか?」  現れたのは、昨夜アヤトたちを治療した細身の女性だった。手には小さなトレーを持ち、質素な食糧と湯気を立てる金属カップを載せている。彼女はリンカを見つめると、機械的な表情でカップを差し出した。 「飲んで。飢えや乾きは体力を奪うから」  リンカは小声で礼を言い、湯気の立つ液体にそっと唇をつける。苦味が混じった薬草のような香りが舌に広がり、身体の奥に熱が染み渡るのを感じた。慣れない味だが、胃が少しずつ目を覚ましていくような気がする。  女性はアヤトの包帯を軽く点検しながら、リンカにちらりと視線をよこした。 「夜通しうなされていたけど、ひとまず出血は止まったわ。栄養と休息があれば、快方へ向かうかもしれない」 「ありがとう……助かるわ」  それだけ言うと、彼女は必要最小限の看護を終えたかのように立ち上がる。部屋を出ようと扉に手をかけたところで、不意にリンカは問いを投げかけた。 「あの……あなたたちの共同体では、“利他”をどのように実践しているのですか? 私、全然実態が分からなくて……」  女性は動きを止め、振り返る。瞳には警戒とも困惑ともつかない感情が揺れているように見えたが、言葉にはそれが表れない。 「ここでは“お互いを生かす”ことが絶対の規律になっている。労働や食料の共有、情報の交換。どこに暮らしていようと、捨て置かれた人々には生存の手段がないからね。ここだけは例外で、互いを見捨てず助け合う。それを徹底するために、ときに個人の自由や欲求を制限しなければならないけど……私たちはそれを恐れない」  どこか朗々とした口調。繰り返し唱えられた共同体の理念を、ただ淡々と“説明”しているようだ。リンカはその奇妙な均質性に息苦しさを覚えつつ、さらに尋ねる。 「でも、あなたたちは外部に閉ざされているでしょう? こうして私やアヤトさんみたいな部外者が来たら、リスクも大きいのでは?」 「そうね。でも利他を標榜する以上、よほどの危険がない限り、受け入れるのも義務だと考えている。互いに助けを必要とする日が、いつ来るか分からないから」  女性はそこまで語ると、あたかもそれ以上は不要だと言わんばかりに扉を開け、ヒュッと身体を抜け出していった。リンカの胸には、曖昧なモヤが残る。この共同体の人間たちは、表面上は優しさや献身を体現しているように見えるが、どこかで“集団への盲従”を感じさせる。それは果たして本物の“利他”なのか、それとも別の強制力が働いているのか。  薄暗い部屋に再び静寂が戻る。アヤトの寝息が浅くなったのを感じて、リンカは小さく声をかけた。 「アヤト……少し起きられる?」  すると、彼は痛みに耐えるように薄目を開け、ゆっくりと身体を横向きにする。 「……リンカ、か。朝か……夜か……もう分からんが……」 「さっき、あなたを手当てした人が来てくれた。体調は? 少しは良くなったみたい」  アヤトは乾いた唇を舐め、声を絞り出す。 「痛みはあるが……昨日よりは大丈夫だ。熱っぽさも……少しだけ治まった気がする」  リンカはホッとする一方で、これからの行動を考えねばならない現実を意識する。昨日の地下水路での襲撃者たちを振り切り、動物園に残してきた鳥のことも、まったく手が打てないままだ。  それ以上に、ここ“共同体”がどんな真意で二人を受け入れているのか――エンロクが言う「お前にはいずれ、私たちの“核”を見てもらうことになる」という不穏な言葉が頭から離れない。  アヤトも同じ思いらしく、片腕をかばいながらゆっくりと上体を起こした。目には深い疲労と暗い決意が交錯している。 「俺はこのままじゃ動きが取れない。けど、ここの“実験”の正体を知らないまま、ここを出るのも難しいと思う。いずれにせよ、エンロクと話をする必要がある」 「あなたが研究したっていう“進化的利他主義”の理論……、ここで実践されてるって聞いたわ。詳しく教えてもらえる?」  リンカの問いに、アヤトは苦い顔をする。過去の傷を抉り出されるような苦悶の色が、微かにまなざしを陰らせる。 「もともと俺は、“協力ゲーム”を最適化するアルゴリズムを研究していたんだ。人間が持つ利己性や承認欲求、それから集団への帰属意識を数式でモデル化して、最大限に“みんなが利他行動を取る”条件を探ろうとした。……でも、結果は単純じゃなかった。利他的に見える行動の裏には、必ず自己保全か自己承認がある。逆に言えば、“本当の利他”なんて存在しない、という結論に近づいたんだ」  リンカは息を飲む。人間社会が形骸化した「非協力ゲーム」へと転落していく一因には、そうした研究の副産物が組み込まれたからなのか。  アヤトは話を続ける。 「当時の俺は、“見かけだけでも利他のふりをさせるアルゴリズム”を作り、それが社会を変えると思ってた。人間が互いを必要とする気持ちを数値的に高めれば、誰もが協力的になるって。だけど、それが都市の承認ポイント制度に流用されたり、投機的な搾取の道具になったりして……。そして、この“エンロク”たちも、別の形で俺の研究を利用した。彼らは“自己保全の欲求”すらも集団維持の材料として囲い込む。そこには一見、美しい利他の理想があるが……裏には個人の自由を奪う“支配”の構造が潜んでいる」 「支配……」 「ああ。おそらく、一切の私有財産も私欲も認めないで、代わりに集団を絶対視する。ひどく極端な方法だ。そうやって“誰もが自分の意志を越えて利他的であるべき”という圧力をかける。まあ、昔からある共同体主義の亜種なんだが、ここでは俺の研究の理論が補強材料として機能しちまった」  リンカの背筋に寒気が走る。確かにここで暮らす人々の様子には、個人の感情がすっぽりと抜け落ちているような印象を受ける。皆、目的を共有し、献身を強要し合っている――とまでは言わないが、それに近い雰囲気を感じる。 「エンロクが言ってた“核”って、その集団の根本を支える仕組みなのね」 「ああ。多分、俺の知らない改造を加えた新しいシステムがあるはずだ。彼らは“実験”を諦めていない。さらに進化させることで、本物の“共存社会”を作ると思い込んでる」  アヤトは唇を噛み、そこから言葉をつなげようとしたところで、扉がノックされる。僅かな空気の振動の後、ゆっくりとスライドして開いた。そこに立っていたのは、昨夜エンロクの隣に控えていた“代理”の男だ。 「エンロクがお呼びだ。回復具合はどうかと尋ねている」  リンカとアヤトは顔を見合わせる。早速“面談”の時間が来たのだろう。逃げる術もない以上、従うしかない。リンカはアヤトを支え、彼の腕を庇いながら立ち上がる。痛みで少し顔を歪めるが、アヤトは気力で踏みとどまった。  通路を進む途中、住人たちの視線がやけに増しているのを感じる。誰も言葉を発しないが、冷静に二人の動向を見定めているような空気がはっきり伝わった。昨日は気づかなかったが、ある壁際には何かの札が並べられ、写真のようなものが貼り付けられている。ここで暮らした人々だろうか。ある者は笑顔、ある者は無表情で、まるで“信徒名簿”めいた雰囲気を帯びていた。  狭い曲がり角を折れると、昨日エンロクと対面した部屋とは異なる扉の前に立つ。代理の男がノブを回し、淡々と告げる。 「ここで待っていろ。エンロクが準備を整えたら呼ぶ。勝手に動かないでくれ」  リンカとアヤトは扉をくぐると、薄暗い小部屋に案内された。中央にテーブルがひとつ、古い椅子が数脚。それだけの質素な空間だ。壁は何層にも塗り足したのか、ところどころ古い塗料が剥がれている。上方には換気用の細いダクトがあり、微かな風が入ってくる。  扉が閉まり、がちゃりと鍵を掛けられる音が外側で響いた。まるで一時的な“監禁”にも感じるが、少なくとも椅子とテーブルがあるだけ昨日の部屋よりはまし、とリンカは思う。アヤトは低く息をつき、テーブルに片腕をついて上半身を支えた。 「仕方ない。呼ばれるのを待つしかないな」 「何を“準備”しているんだろう……」  リンカが疑念を口にした瞬間、遠くのほうで何かが大きく転倒するようなガランという音がした。人々のざわめきが薄い壁を通してうっすら伝わる。足音がばたばたと激しく動いている気配もする。だが、ここからは状況が見えない。 「嫌な予感がするわ」  リンカは立ち上がって扉に近づくが、鍵が掛かっているらしくノブがびくとも動かない。外の声に耳を澄ましても、何を言っているのか聞き取れない。  アヤトがゆっくりと顔を上げる。痛みのせいで青ざめた表情のままだが、そのまなざしに暗い決意が浮かんでいた。 「リンカ、この状況、じっと待っているしかないのかもしれない。けど、もし彼らの“実験”がエスカレートしているなら、俺たちは危険に巻き込まれる。逃げ道を探しておくべきかも……」  言い終わらないうちに、扉のノブが外から回り、ギィという金属音が鳴った。二人は息を詰め、身構えるように扉を見る。ゆっくり開いた先には、昨夜アヤトの治療に関わった細身の女性と、頭巾を被った壮年の男が立っている。 「待たせたな。エンロクが、そろそろお前たちを案内するようにと」  男が短く言う。女性の表情は厳しく、まるで何かを噛み殺そうとしているようにも見えた。彼女は言葉少なに、廊下の奥を顎で示す。 「案内するからついてきて。走ったり騒いだりはしないで」  リンカとアヤトは互いに視線を交わし、意を決して歩き出した。打ち捨てられたような廊下を抜けると、鉄扉をいくつも経由して上下へ移動させられ、やがて深い地下層へ降りていく階段に出る。そこはまるで要塞の通路のようにコンクリートが厚く、照明もところどころ割れていて薄暗い。  何度か曲がり角を折り返し、耳が痛くなるほど低い振動が響く狭い通路へ入り込む。その突き当たりに、巨大な金属扉が鎮座していた。錠前がいくつも重なり、中央には見慣れない丸い操作盤のような装置がはめ込まれている。  細身の女性が鍵束を取り出し、複雑な手順で錠前を外す。続いて操作盤に手を触れ、指先で何かのコードを入力するように忙しく動かした。カチリ、カチリと合い鍵が噛み合うような音が続き、重たそうなドアが軋みをあげた。 「……中へ入って」  ドアが開いた先は、異様なまでに広い地下空間だった。天井は高く、壁にはパイプや配線が縦横無尽に這い回っている。中央には大きな円形の床スペースがあり、その周囲をぐるりと取り囲む形でいくつものコンソールパネルが並んでいた。大昔の研究施設か実験室を思わせる光景。床には金属板が敷かれ、どこからか微かな電子音が響く。  部屋の中央に立っていたのは、他ならぬエンロクだった。冷たく透き通る瞳で、リンカとアヤトを出迎える。その周囲には共同体のメンバーらしき数名が点在し、誰もが緊張した面持ちで静かに待機している。 「来たな」  エンロクが一言だけ発すると、頭巾の男と細身の女性が両脇に控えた。アヤトは痛む腕を庇いながら、エンロクへ視線を向ける。 「ここが……お前の言う“核”か」 「そうだ。ここには私たちが導入した“システム”がある。お前の理論が礎となり、さらにわれわれ独自のフィードバックを加えた“究極の利他”への道が詰まっている」  リンカは思わず周囲を見回す。コンソールの上には無数の配線や解析ツールらしき機器が接続されており、奥には大型のモニタースクリーンが据えられているが、今は暗く沈んでいる。 「一体……何をする場所なの?」  エンロクはゆっくり歩み寄りながら、骨ばった手を伸ばしてコンソールの一つを叩く。鋭い金属音が地下空間に反響し、みな一様に身をこわばらせる。 「利他を完遂させるには、人間の意志をシステム側から統合せねばならない。お前たちが“自由意志”と呼ぶものは、その多くが利己によって腐食されているからな。ならば意志を部分的に“接続”すればいい。……我々はここに独自のソフトウェアを構築し、個人の脳神経やホルモン分泌を監視・誘導できるようにした。高次適応アルゴリズムを応用し、最適化された利他の感情を人間に与えるんだ」 「な……に……?」  リンカは背筋が凍る思いでエンロクを見返す。そんなことが現実に可能なのか。そこには重大な倫理的問題があり、そもそも人間の感情や思考を“接続”して誘導するなんて……。  アヤトも唇を震わせながら、エンロクを睨みつける。 「それこそ、人間を“ただの駒”にするやり方だ。思考の自由どころか、感情さえシステムに預けるのか……!」  エンロクはまったく表情を揺るがさず、むしろ落ち着いた口調で続ける。 「我々が望むのは単なる管理ではない。“幸福”だ。人間同士が本心から結びつき、利他的に支え合う社会。ありうべき理想を実現するためには、少々強制が必要だと考えているだけだ。……お前もかつて“協力アルゴリズム”を開発したじゃないか。そこに更なる神経干渉の技術を統合すれば、より確実な形で“進化的利他”が達成される。どうだ? 喜ぶべき成果だとは思わないか」  アヤトは苦しげに息を詰め、思わず膝を折りそうになる。リンカは衝撃に言葉を失い、ただ呆然とエンロクを見上げる。遠く機械の振動が低く唸り、まるで空気が一瞬凍りついたようだ。  ――これが、共同体が秘める“核”の正体。つまり、人間の脳神経や情動を管理・干渉してしまう技術。彼らに言わせれば、これが“究極の利他”を生み出す道具だという。 「お前たちは、これを“実験”と言っていたな。つまり、まだ完成していないのか?」  アヤトの問いに、エンロクは微かに唇の端を上げた。 「数名の被験者にはもう試している。結果は上々だ。少しだけ微調整が必要だが、皆が“心の底から他者を尊重し、利他的欲求が湧き上がる”状態に至った。些細な争いは消え、どこまでも献身し合う。こんな素晴らしい進歩を、お前は否定するのか?」 「……そんなもの、俺は絶対に認めない……!」  アヤトは痛む腕を押さえながら声を荒げる。そこにリンカもようやく口を挟んだ。 「人の意志を奪うなんて“利他”じゃない。どんなに美辞麗句で飾っても、それはただの……支配だわ……!」  リンカの訴えに、エンロクはわずかにまばたきをして、軽く首を振る。 「利他主義を貫けない人間こそ、まやかしの“自由”に踊らされているに過ぎない。私たちは真の意味で“誰もが救われる社会”を実現できる。その先には、他者を思いやる歓びだけが満ちる世界が待っている。何が問題だ?」  その言葉が落ちきらぬうちに、室内の扉が開き、二人の共同体メンバーが慌てた様子で駆け寄ってきた。彼らはエンロクの耳元で何事かを囁く。エンロクの眉が微かに動き、音もなく口角を下げた。 「やはり来たか……。外部の連中が、この地下への侵入を試みているらしい。……想定より早いな」  リンカとアヤトは一瞬目を合わせる。もしかして、地下水路で出くわした集団だろうか。あるいは別の勢力か。どちらにせよ、一筋縄ではいかない状況が加速しそうだ。  エンロクは従者たちにいくつか指示を与え、再びリンカとアヤトのほうへ向き直る。その眼差しには新たな緊張が宿っていた。 「話はまだ途中だが、今は余裕がない。いずれ、“接続”の可能性をお前たちにも示そうと思っていたところだが……仕方ない。まずは外部の脅威を排除しなければならない。ここが崩壊すれば、理想も何もなくなるからな」  “接続”――その言葉にこめられた恐ろしい未来を想像して、リンカは寒気を覚える。利他を謳いながら、個人の意志を奪い取るシステム。それが、エンロクの言う“究極の共存”だというのか。  周囲のメンバーが一斉に動き出し、コンソールを操作したり、出口を固めるように配置についたりしている。エンロクの命令が絶対らしく、皆自発的に従順に動く。アヤトはその光景を見つめ、苦々しげに顔を背けた。 「お前たちには、しばらく部屋で待機してもらう。……応じないなら、多少強引な手段も辞さないぞ」  エンロクの声は冷たく低い。リンカは反論を試みるが、頭巾の男が素早く近づき、その腕をつかむ。アヤトも強い力で捕まれ、痛みに歪む表情を浮かべる。彼らの動きは統制が取れており、逃げ出す隙はない。 「離して……っ!」  必死にもがくリンカだったが、他のメンバーが静かに取り囲み、力ずくで廊下のほうへ連れ戻そうとする。まるで、何事もなかったかのように、淡々と“手順”をこなすかのような動き。命令が下れば、人間を縛り上げることすら“利他”として認識しているのだろうか。  耳元で機械のブーンという重低音がこだまする。白い蛍光灯が薄汚れた天井を照らし、パイプに沿って青黒い影を落としていた。エンロクは背中で腕を組んだまま、二人をじっと見据えている。  外部から迫る正体不明の脅威。それを迎え撃とうとする共同体。そして彼らが進めようとする“脳神経接続”による押しつけられた利他の理念。状況は急速に緊迫の度合いを増し、リンカとアヤトは完全に翻弄されていた。  廊下に足音が低く響き、アヤトはそのたびに歯を食いしばるように進んだ。リンカの腕を掴む手は冷たく、容赦のない力が彼女の足元を乱していく。無表情のメンバーたちは、均一な歩調で二人を導いていった。  鋼鉄の扉が背後で閉まる音は、厳然たる現実を突きつける。小さな鳥の面影さえ、もう追いつけない場所へと押しやられたようだった。 ---  小さな部屋に押し込められてから、どれほど時間が経ったのだろう。淡い照明がコンクリート壁を照らすだけの狭い空間に、リンカとアヤトは閉じこめられたままだ。先ほどまでの騒音や人声はぴたりと止み、まるで地下全体が息を潜めたような、異様な静寂が広がっている。 「……どうする? このまま待っていても危ないかもしれない」  リンカは扉を見つめつつ、声をひそめた。アヤトの怪我は多少落ち着いたが、無理をすれば再び出血しかねない。彼自身は顔面蒼白ながらも、じっと拳を握りこんだまま意識を研ぎ澄ませている。 「エンロクたちは、今頃外部からの“侵入者”をどうにか排除しようとしてるんだろう。ここに警備が増えていないのは、その対応に人手を割いている証拠かもしれない」  アヤトは肩で息を整えながら言った。静かな声に、しかし追いつめられた感情が混じる。  部屋は三畳程度の広さで、壁際に古い椅子がいくつか積まれている。これまでに何度か似た造りの“待機室”に案内されたが、ここはさらに窓も換気口も小さく、圧迫感が強い。扉の外からは人の気配がほとんど感じられない。  リンカは落ち着かない足どりで部屋を一周し、荒いコンクリ壁に触れてみる。通気口は高い位置に取り付けられ、成人がよじ登れる場所にはなさそうだ。 「扉から出るしかないのね。外を警備してる人間がいるか、いないか……」 「だが、騒ぎが収まるまで待てば、より厳重に監視される可能性もある。逃げ道がなくなる前に、何とかしなきゃな」  アヤトは小さくうなずく。負傷した腕を固定した包帯は少し汚れたままだが、傷の痛みはどうやら我慢できる程度に落ち着いたようだ。暗に「やれるだけのことを試そう」という決意がその表情に読み取れる。  しかし扉に耳を当ててみても、人の気配は希薄だ。開ければすぐに廊下で見張りに遭遇するかもしれないし、案外誰もいないかもしれない。今は何も分からない。 「……行くしかないわね」  リンカは一度息を吐き、アヤトと目を合わせる。彼もうなずき返し、力を込めたまなざしで返事をした。 「鍵がかかっているなら強行突破しかないが、鍵の種類によってはピッキングも無理だろう。まあ、運を試そう」  そう言ってアヤトは、包帯を巻いた腕ではないほうの手でドアノブを回す。最初は固く閉ざされていたが、ゆっくり力を込めるうちにかすかな遊びが生まれ、ガチャリと金属が外れる感触が伝わる。 「……開いてる?」  リンカがひそかな驚きをこめて尋ねると、アヤトは小さく息をつく。 「ああ。荒っぽく鍵を閉めたせいか、それとも閉めるのを忘れたのか……いずれにせよ、幸運だ」  リンカは周囲に身振りで警戒を示しながら、アヤトに続いてドアをわずかに開いた。ぎこちない音が廊下へ漏れる。身を硬くしつつ外を覗き込むと、通路の照明は薄暗く、人気がまったくない。どこか奥のほうから、低いうなりのような機械音が響いてはいるものの、人の声や足音は聞こえない。  リンカはアヤトの肩を支えつつ、通路にじわりと身体を滑り出していく。壁のそばに身を寄せ、さらに周囲の様子を確かめるが、警備らしき人影も見あたらない。 「何だか嫌に静かね。まるで嵐の前みたい」  アヤトも同じ不気味さを感じているらしく、歯を食いしばったまま顔をこわばらせている。 「警備兵を動かすほど、外の侵入者が手強いのかもしれない。あるいは、エンロクの部下が“接続”を受けて、あまり恐怖や疑問を持たずに行動しているのかもな」  “接続”――思考と感情をシステムで誘導されるという恐ろしい手口。その一端が、すでにこの地下で行われているのだろうか。リンカはぞっとする思いで胸を押さえた。  アヤトは痛む足取りで、壁を頼りに歩みを進める。廊下には複数のドアが並んでいるが、どれも閉ざされており、中の様子をうかがうことはできない。人気のない廊下を奥へと曲がったところで、僅かに開いたドアのすき間から明かりが見えた。 「ここ、医療スペースだったかもしれない。昨夜治療された場所が、似たような構造だった」  アヤトが小声で言う。リンカも記憶を辿り、何度か案内された治療室らしき部屋の造りに似ていると思い出す。もしかすると、何か使えそうな医薬品や道具が見つかるかもしれない。 「傷の手当てができればありがたいし、何らかの武器になりそうなものがあるなら……」  二人はドアへゆっくり近づく。開け放たれた隙間から覗くと、中は手術室と看護用ベッドを組み合わせたような施設で、薬品の棚や金属トレイが並んでいる。だが人の姿はない。  アヤトがドアを押し広げ、中へ踏み込む。無機質な医療器具の匂いがかすかにこもり、棚には注射器やガーゼ、消毒薬らしき瓶が整然と置かれていた。リンカは手際よくガーゼや包帯を探し出し、アヤトの腕の包帯を少し巻き直す。 「今のうちに……少しでも清潔なガーゼに替えておきましょう。あと痛み止めとか、使えそうな薬も」 「すまないな……」  アヤトは唇をかすかに曲げる。感謝と苛立ちが入り混じったような表情だ。きっと自分がまともに動けていれば、リンカをこんな危険な状態に巻き込まなくて済んだと思っているのだろう。  リンカは黙って首を振り、口を引き結ぶ。とにかく今は、二人で協力し合うしかない。  手近にあった小さなショルダーバッグのようなものを見つけ、薬品や包帯をまとめて詰め込む。消毒液や基礎的な医療道具があれば、応急処置には事欠かないだろう。腕を伸ばしてさらに別の棚を探っていると、妙なラベルの付いた小瓶が視界に入った。 「……この液体、色も変だし、ラベルには見覚えのない記号が書いてある」  リンカが小瓶をつまみ上げる。琥珀色のような液体が揺れ、中に小さな沈殿物が舞う。ラベルには幾何学的な印が描かれ、専門外の人間には何を示しているか想像もつかない。  アヤトはちらりとそれを見やり、唇をかすかに噛む。 「何かのホルモンや薬剤を人工合成したものかもしれない。まさか“接続”に使う薬物じゃないだろうな……」 「さすがに判断がつかないわね。とりあえず持っていくべきかしら」  二人が小瓶に集中していると、廊下のほうから急に足音が鳴り響いた。複数の人影が動いている気配。リンカはさっと身を屈め、ドアの隙間から様子を伺う。 「……まずい、来るかもしれない」  アヤトもバッグを抱え、準備を整える。たとえ戦闘を避けられたとしても、囚われ延長となれば“接続”の餌食だ。ここで見つかるわけにはいかない。  足音が医療室の前で止まるかと思いきや、そのままさらに奥へ続く廊下を駆け抜けていく。息を殺して待つ二人の耳に、断片的な声が飛び込んできた。 「……外部連中……下水路沿い……侵入……対処を……」  言葉ははっきり聞き取れないが、どうやら共同体のメンバーが慌ただしく動いているらしい。  リンカとアヤトは顔を見合わせ、息を吐く。エンロクの言っていた「外部の脅威」は本格的に押し寄せているようだ。 「この騒ぎに紛れて、逃げるか……? あるいは“核”の場所へ戻り、あのシステムをどうにか破壊するか……」  リンカの脳裏に“廃墟の動物園”で傷ついた鳥の姿がよぎる。だが、今は自分たちの身も危うい。鳥を助けに戻るだけの余裕など、とてもなさそうだ。  アヤトは暗い瞳でドアの向こうを窺いながら、歯をくいしばった。 「エンロクのシステムを放置して逃げれば、ここで暮らす人間は完全に洗脳される恐れがある。外部の侵入者だって、連中を倒すために強硬手段を使うだろう。大勢が犠牲になるかもしれない」  リンカは眉をひそめ、消え入りそうな声で答える。 「でも、私たち一組だけで何ができるの……? あなたも怪我をしてるし、そもそも私たちには専門知識だってないわ」 「……そうだな。だが、俺の研究がここの根幹になっている以上、何か脆弱性があるはずだ。物理的にシステムを破壊するのか、あるいは電源を落とすのか。とにかく“中枢”を止めれば、接続を一時的にでも無効化できるかもしれない」  沈黙のすき間を縫うように、遠くから爆発音めいた衝撃が響いた。地響きとともにコンクリートがかすかに振動する。リンカは思わず膝をつき、棚に手をやってバランスを保つ。 「な、何か起きた……!」 「外部の連中が爆発物でも使ったか、あるいはここの防衛側が応戦したか……」  アヤトは唇を引き結んだまま、ふらつく身体を支える。内と外の衝突はもう回避不能のようだ。  決心したように、リンカがバッグを背負い直す。 「……あの広い地下空間、覚えてる? エンロクが“核”と言っていたあの施設。そこへ戻れないかな」 「おそらく、あそこが彼らのシステムの本体。普通なら厳重警備で近づくのも容易じゃないが、今は混乱のさなかだ。意外と穴があるかもしれない」  リンカとアヤトは視線を交わす。二人とも怖い。それでも、ただ逃げるだけでは何も変わらない。廃墟の動物園がそうだったように、人間たちが勝手にルールを変え、支配しようとした結末がこれだとしたら、自分たちには止める義務がある――そんな衝動が、今の恐怖をわずかに凌駕していた。  意を決して医療室を出ると、爆音に揺れる廊下が眼前に広がる。先ほどよりもはっきりとしたざわめきが耳に届く。どこかの扉が乱暴に開閉される音や、複数の足音が交錯する気配。 「急ごう。騒ぎに巻き込まれる前に、エンロクのあの部屋に行くんだ」  アヤトの指示に、リンカは小さく頷く。二人はなるべく足音を立てぬよう壁伝いに進み、空気の流れを感じ取れる道を選ぶ。やがて小さな階段室に出たところで、金網状の扉がわずかに開いているのに気づく。  下方から吹き上がる冷たい風。以前、エンロクに案内されたときとは別の経路のようだが、きっと地下の深部へ通じているはずだ。二人は下り階段へ体を向ける。そこへ―― 「止まれっ!」  鋭い声が背後から突き刺さり、リンカは息を呑む。振り返ると、頭巾を被った男が銃のようなものを構えて立っていた。目だけが見えるその姿は、どうにも無機質な冷たさを放っている。 「勝手に動くなと言われただろう。エンロク様が許可していない。戻れ」  男の声は感情を押し殺したようで、まるで眠ったまま命令を再生しているかのようだ。リンカはとっさに両手を挙げるようにしてアピールする。 「お願い、撃たないで。私たちはただ……ここを出たいだけ……」  しかし男は応じようとしない。銃口はやや震えているようにも見えるが、その指先はいつでも引き金を引ける状態だ。アヤトが一歩前に出ようとした瞬間、男の腕がビクッと動き、金属の引き金が軋みの音を立てた。 「やめろ……!」  リンカの悲鳴にも近い声がこだます。だが男は何かに突き動かされるようにトリガーを引きかけた――その刹那、背後から別の大きな衝撃音が鳴り響き、壁を震えが駆け抜ける。同時に廊下の天井が火花を散らして照明が落ち、あたりが半分闇に沈んだ。 「ぐっ……!」  男がバランスを崩し、銃口がずれる。リンカとアヤトもつんのめりそうになりながら、転がるように階段へ身を投げた。ガラガラと天井の破片が舞い落ち、粉塵が視界を埋める。何が起きたのか確かめる間もなく、二人は階段下へと慌てて駆け下りた。 「撃たれなくて済んだけど……いったい何が……」  リンカは咳き込みながら、肩にかかった粉塵を払う。上方からは男のうめき声や、複数の足音が交錯する音が聞こえてくる。どうやら外部の侵入者がここまで入り込んだか、あるいは共同体側が何らかの防衛爆薬を誤爆させたのか――いずれにせよ、大規模な混戦が起きているのは間違いない。  アヤトは崩れ落ちた金網扉を押しのけ、さらに下へ向かう階段を探す。肩で息をしながらも、まなざしは鋭く先を睨んでいる。 「急ごう……エンロクの中枢部屋は、こんな階段を二つか三つ降りた先だったはずだ。通路の配置は違うが、地下深部へのルートが必ずある」  リンカもうなずき、バッグを引き締めるように背負い直した。足音と爆音はしだいに遠ざかり、代わりに下層へ引き込まれるような冷気と機械振動が増してくる。この先にある“核”と呼ばれる施設を破壊できるか否かが、すべてを左右しそうな予感が胸を締めつける。  苦労しながら階段を降りきると、そこは幅の広い通路が左右に延びる巨大な空洞で、パイプや配線がむき出しに走っていた。照明は非常灯のように赤く点滅し、壁のあちこちには警戒用のメッセージが貼られている。 「ここだ……! 確かに昨日通されたときは別の入口から入ったが、この構造は同じ。エンロクがいた部屋は、もっと奥のはずだ」  アヤトは血の気を失いかけた表情のまま、リンカを促す。二人は休む間もなく駆けだす。足元で何か機械の部品が転がり、硬い音を立てた。  進むにつれ、低周波のような振動が足裏に響きはじめる。まるで巨大な心臓が地下深くで脈打っているかのようだ。接続システムか、それを支える発電施設が作動しているのだろうか。リンカは妙な耳鳴りを感じながらも、背筋を伸ばして歩みを早めた。  やがて視界の先に、見覚えのある重厚な扉が現れる。昨夜、エンロクが自分たちを連れて入ったあの“核心部”の扉。両脇には制御用のパネルがあり、鍵やパスコードを入力しなければ開かない仕組みになっているはずだ。 「どうする……? エンロクの部下が待ち伏せしているかもしれない」  リンカは息を飲み、ドアの手前で立ちすくむ。だがアヤトは、かすかにドアが開いているのを見咎め、目を見張った。 「誰かが先に開けて中へ入った形跡だ。たぶん……外部の侵入者か、あるいはエンロクたち自身か。とにかく好都合かもしれない」  二人は音を立てないよう、わずかに開いたドアの隙間をこじ開ける。薄暗い照明に照らされた円形フロアの中心には、大型コンソールとモニターが並び、複数のケーブルやパイプが天井へ伸びていた。けれど、人の姿は見当たらない。 「誰もいない……?」  リンカが不審そうにささやいたとき、遠くの奥まったスペースで弱々しく光るモニターがちらつく。細かい文字列や数式じみた表示が高速で流れ、警告色の表示がいくつも点灯している。画面には細かい文字列や数式じみた表示が高速で流れ、いくつかのグラフが不規則な動きを示していた。  ――“同期率低下:12.4%”  ――“侵入モジュール検知:セクターB-12”  ――“再起動不能:エラーコード#F7E13”  アヤトが唇をかすかに引き結び、コンソールへ歩み寄る。見れば操作パネルが荒らされた形跡があり、いくつかのケーブルが断線して剥き出しのまま火花を散らしていた。 「誰かがここを破壊しようとしたのか、それとも無理やり操作してシステムを奪おうとしたのか……」  言いかけた矢先、床の陰からかすかなうめき声が聞こえた。リンカは思わず身をすくめ、アヤトもとっさに警戒の姿勢をとる。 「……誰かいるの?」  恐る恐る近づくと、そこには倒れこんだ男の姿があった。エンロクの部下なのか、あるいは外部勢力なのか、その服装は乱雑で判別しづらいが、どうやら血を流して意識が混濁しているようだ。銃や凶器は持っていないように見える。  男は苦しそうに目を開き、リンカとアヤトの姿を確かめると、口の端を引きつらせて笑ったのか、それともただ歪んだだけか。掠れた声で囁くように言う。 「……システムが……暴走してる……連中がめちゃくちゃに操作して……相互接続が……破綻して……」  そこまで言うと、息を詰まらせて体を硬直させる。リンカは慌ててバッグからガーゼを取り出すものの、もはや間に合いそうになかった。 「暴走……?」  アヤトが低く繰り返す。男はもう言葉を継げず、がくりと首をのけぞらせて意識を失った。短い息が荒れ狂うように漏れ、ほどなくピタリと止まる。  リンカはその光景に胸を締めつけられながら、急いで脈を確かめるが、完全に絶たれていた。どちら側の人間だったのかも分からない。無為に散った命に、後味の悪い虚しさが胸に広がる。 「……システムの暴走、か。下手すれば“接続”済みの人間たちは制御が混線して、錯乱状態に陥る可能性がある」  アヤトはややうわずった声でつぶやく。リンカも思わず背を伸ばし、円形フロアの中央に林立するコンソールを見据えた。  モニターの警告表示はさらに増えていて、真っ赤な文字が高速に点滅している。そこには「強制終了」とか「再構築」などの単語らしきものが断片的に出現し、画面端に未知のコードがびっしりと流れていた。 「とにかく、ここを壊さなきゃ。全部止めるの」  リンカはバッグを置き、どこかにオフスイッチかメイン電源のケーブルがないか探そうと身をかがめた。が、配線は複雑に入り組み、見境なくコンピュータとサーバラックを行き来している。 「もし破壊の仕方を間違えれば、接続中の人間が一斉に脳に深刻なショックを受けるかもしれない。それこそ大量死もあり得る……」  アヤトの声は震えていた。ここで適当に電源を落とせば、かえって“接続”中の人々が危険にさらされる。とはいえ、何もしなければ、いずれシステムが暴走してさらなる悲劇を呼ぶ。  焦燥とためらいの板挟み。リンカは額の汗を拭き、アヤトの目を見つめる。 「何か安全な方法はないの? あなたの研究が元なら、停止手順とか緊急回避シーケンスとか……」 「……理論は知っている。だが、俺の研究段階ではこんな“脳神経誘導”まで組み込んだことはなかった。そういう分野を扱った仲間はいたが……」  そのとき、奥の闇から微かな足音が響いた。二人はとっさに身を引き、コンソールの陰に隠れる。冷たい汗が背筋を伝う。足音は迷うようにフロアをゆっくり巡っているらしく、ガチリ、ガチリと金属がこすれる音が混じる。  ちらりと覗くと、そこに立っていたのは――エンロク本人だった。彼は腕を背中に組み、まるで彫像のように無表情な顔でモニターの警告を見つめている。周囲の死体や壊れたパネルなど、まったく意に介さないかのようだ。 「……ああ、なるほど。“外部の侵入者”どもの手が及んだせいで、システムが一時的に不安定になっているのか」  呟きながら、エンロクは残っていた一台の制御端末に手を当て、何かを入力するような仕草をする。モニターのエラー表示がさらに速度を増して変化し、ある部分が青白い閃光を放つ。 「お前たちの愚かな妨害行為は、ただの時間稼ぎにしかならん。いずれ“完全接続”は成し遂げられる……“究極の利他”は止まらない」  彼は淡々と呟いたあと、床に崩れ落ちている男の死体を一瞥して、目を伏せるように首を傾けた。そこには悲しみや憐れみの色はまるでない。 「あらゆる非協力と破壊衝動が消えれば、誰もが無意味に死ぬことはなくなる。――自らの意志で互いを助けるのが理想? 笑わせるな。人間は“管理”されなければ協力などできない。理解できない奴は排除されるだけだ」  鋭い言葉が薄暗い空間に響く。リンカはコンソールの陰で震え、アヤトは悔しそうに拳を握りこんでいる。暴走したシステムをどうやって止めればいいのか、エンロクをどう阻むのか。絶望が胸を苛む。  ――そのとき、突如としてドア側から激しい銃声が巻き起こった。パン、パンッと乾いた破裂音が連続し、火花が散る。エンロクはわずかに上体をそらせ、反射的に端末から手を離す。 「誰だ……?」  リンカはコンソールの陰から身を乗り出してちらりと覗く。そこには、ほかの武装集団らしき姿が見えた。外部勢力か、それとも別の共同体反乱グループか――少なくともエンロクに敵意を向けていることは確かだ。彼らは一斉に銃口をエンロクに向け、短い声を発して指示を飛ばしているように見える。  エンロクはその銃口にもまったく動じず、むしろ静かに腕を広げ、冷笑を浮かべた。 「下らん。そんな下等な暴力で“究極の利他”を破壊できるとでも思うのか? お前たちの愚行がシステムに干渉を与えたところで、いずれ再起動し、私たちは新しい社会へ移行する……」  男たちは一瞬ためらったが、すぐに射撃姿勢を取る。しかし次の瞬間、天井から噴き出した蒸気のようなものがフロアを覆い、白い靄が舞い始めた。どこかの配管が破裂したのかもしれない。視界がみるみるうちに悪化し、男たちが混乱しはじめる。  リンカとアヤトは咄嗟にマスクなど持ち合わせていないが、粉塵を吸い込まぬよう鼻口をハンカチで押さえた。エンロクの姿が靄の中に溶けかける。 「まずい……やるなら今しかない」  アヤトが低く言う。あの端末を物理的に破壊すれば暴走は止められるのかどうか、確証はない。だが、何もせずエンロクに立ち去られれば、彼は後でどうにでも復旧させるだろう。  ――覚悟を決め、リンカはバッグの中から見つけた医療用の小さなメスを握った。武器としては心許ないが、何もないよりはましだ。アヤトは近くに落ちていた鉄パイプを拾い上げ、痛む腕でそれを支える。 「行こう……!」  二人は靄をかき分け、銃声や怒号の飛び交うフロア中央へ突っ込む。絶望と恐怖で脚がすくむが、同時に一縷の希望と怒りが脳を駆り立てる。誰もが接続され、意志を奪われる世界など絶対に認められない。  空気を裂くように銃弾が数発飛び交い、火花の音が鋭く響く。リンカはどうにか身を伏せるように動きながら、エンロクの立ち位置を探す。わずかな視界の先で、彼のシルエットが暗がりに揺れているのが見えた。  しかし、そこにいたはずのエンロクの姿は、急激にスモークにかき消されていく。あるいは彼が別の出口を見つけたのかもしれない。 「エンロクめ……!」  アヤトが悔しげに歯噛みする。だが、今はエンロクを追うより、この端末をどうにか止めるほうが優先かもしれない。  白煙の広がるフロアを手探りで進み、制御端末までたどり着く。無数のケーブルが絡み合った制御装置が、エラーを示す赤い警告灯を絶え間なく点滅させている。リンカは咳き込みながらも、端末の操作パネルに目を向けた。そこには専門的なコードが踊っており、下手に触れればさらなる暴走を誘発しそうだ。 「分からない……何をどうすれば……」  その絶望的な声に、アヤトがうめき声を上げながら手を伸ばす。片腕の激痛に耐え、何とかキーボードに指を添えた。 「俺にできる限り試してみる。……システムの再起動コードを阻止できれば、強制シャットダウンに移行するはず……でも、間違えば……」  その先を言わずとも分かる。誤操作で接続者が大量死、あるいは再起動が完了し、全員が意志を失う――どちらも最悪の結末だ。 「やるしかない……! アヤト、がんばって」  リンカは真っ白な靄の中、かがみ込むようにアヤトの背後を守る。突然襲ってくる銃火やエンロクの残党に備えて、神経を尖らせた。  アヤトは短い呼吸を繰り返しながら、画面を凝視し、一連のコードを打ち込む。昔の研究記憶をたどり、想像で補完しながら、暴走を止めるためのデバッグを試みる。  エラーを示す数字列が絶えず点滅し、すべてが徒労に終わりそうな予感が脳裏をかすめる。しかし、やるしかない。  ――その刹那、床下から突き上げるような衝撃がフロア全体を揺るがした。地鳴りにも似た振動が、配管を軋ませ、機械類から火花を噴き出させる。  アヤトはよろけそうになりながらも、最後のキーを打ち込む。タタタッとエンターを押すと、画面上で走り回るエラー表示がいったん凍りつき、赤から黄色、そして白へと切り替わった。 「いま……何をしたの?」  リンカが声を上ずらせる。アヤトの唇には微かな血の色が戻りかけたが、その目の奥には終わりなき不安が宿る。 「“再起動のキャンセル要求”を連続送信して、システムが持つ保護機能を誤作動させた。理論上は、これで強制停止のプロセスに移行する……はずだ」  その言葉が終わらないうちに、コンソールとモニターが一斉に閃光を放ち、フロアを白く染める。リンカは目を覆い、アヤトも反射的に顔を背けた。激しい電子音が耳を刺し、金属が焼けるような焦げ臭さが鼻をつく。  そして――一瞬の絶対的な沈黙が訪れた。空気の振動が消え、白煙の向こうで何も動かない。モニターは全画面が暗転し、警告灯すら落ちている。  リンカは息を詰めたまま、周囲の様子を見回した。照明の非常灯はかろうじて生きているが、システム関連の光源がすべて失われたため、フロアは深い闇が混じった半明るい状態だ。 「止まったの……?」  耳を澄ませても、先ほどまでの振動が嘘のように消え去っている。だが同時に、ここが完全に安堵できる場所でないことを二人とも理解していた。 「とりあえず暴走と再起動は阻止した。……でも“接続”されていた人々がどうなったかは分からない。この停止で脳にダメージがあったのか、あるいは目が覚めるのか……」  アヤトはそう呟くと、もう力が尽きたかのように崩れ落ちそうになる。リンカが慌てて身体を支えてやる。 「一旦、ここを離れよう。まだ銃声が遠くで聞こえるし、エンロクだってどこに潜んでいるか分からない」 「……ああ。外部の連中にも、この停止がどう受け取られるか……状況はまだ混沌のままだろう」  リンカはアヤトの肩を借りて、フロアの出口を探す。先ほど来たドアとは逆側に非常口の表示がわずかに光っているのが見えた。  ――と、そのとき。 「待て……お前たち……」  白煙の向こうで、低い呻き声にも似た呼びかけが聞こえた。リンカとアヤトは凍りつくように振り返る。そこには、片膝をついたエンロクの姿があった。顔にはすすや血が付着し、コートの片袖が焦げている。だが、その瞳の光はまったく衰えていない。 「お前たちが……システムを止めたのか……。なぜだ、理解できない。人間が利他的になるためには、これが唯一の道だったというのに……」  彼はふらふらと立ち上がろうとするが、片足がうまく動かないらしく、再び膝をつきかけた。それでも、その目は狂気を孕んだまま二人を睨む。 「それでも……まだ、終わりじゃない……。この施設だけが私たちの全てではない。いずれ……再構築できる……」  リンカは恐怖と怒りが入り混じった声で応じる。 「そんなの、ただの支配に過ぎないわ……。何が“究極の利他”よ……あなたは、人間の尊厳を踏みにじってるだけ!」  エンロクの口元が嘲るように歪む。 「尊厳? お前たちの偽りの尊厳が、どれほどの無意味な争いと悲劇を生んできたか、分かっていない……」  彼はもう銃や武器を持っていない。それでも、その言葉だけで相手を圧倒する力が宿っているように感じる。アヤトは唇を噛み、リンカに合図を送る。 「……もう放っておけ。今は撤退が先だ」  だが、エンロクは彼らをただ見送る気はないらしく、まるで這うように床を手でつかみ、コンソールに近づこうとする。何とか再起動を企てようとしているのだろうか。 「やめろ……!」  アヤトが焦って叫ぶが、エンロクの指先が端末のケーブルを掴もうと伸びる。危険だ。停止したはずのシステムが、また動き出すかもしれない。リンカは恐れを押し殺し、反射的に持っていたメスを投げ捨てるように放り出した。 「あっ……!」  メスはカラン、と音を立ててコンソールの下に転がる。その音にエンロクの注意が一瞬そちらへ向いたが、彼の手はすでにケーブルを掴もうとしていた。次の瞬間、火花が散り、ケーブルがエンロクの手のひらを焼いた。白煙に滲んだ痛みの叫びが、不気味な残響を伴ってフロアに広がった。  このままではもう持たないだろう。エンロクがこのまま意識を保てるかも定かではない。火花が散り、断線したケーブルが宙ぶらりんになったままだ。 「行くぞ、リンカ……!」  アヤトがリンカの手を引く。周囲の武装集団がいつ戻ってくるか分からない。ここで立ち止まれば、また戦闘に巻き込まれるか、あるいはシステムの再稼働を阻止しようと足止めされるか。  リンカも決意を固め、目を伏せるようにしてエンロクを見捨てる。強烈な罪悪感がのしかかるが、もう自分たちにできることは限られている。  扉を押し開けると、先ほどの白煙が薄まった通路が見え、その先に非常口のマークがちらついていた。断続的に響く爆音と銃声が心を凍えさせるが、外へ抜ける望みはそこにしかない。 「……廃墟の動物園に戻るか、上層に出るか。どこへ行くにしても、まずはこの場所から離れないと」  リンカはアヤトの腕を支えつつ、傷を気遣うように肩を貸す。二人は息を合わせるように歩き出す。死体や瓦礫の山を避けながら、闇の底から微かな風が通り抜ける通路へ進む。  まだ出口は遠いが、前へ進むしかない。背後でエンロクのうめき声や、どこかで火花を噴き続ける機械の異音が、長い残響となって耳を刺す。真っ暗な不安のなか、それでも小さな可能性を求めて足を動かすしかない。  人間が互いをコントロールし合う愚かな仕組みを、ここで終わらせた――そう信じたい。しかし、果たしてエンロクの思想は完全に潰えたのか、それともどこかで再び芽を吹くのか。  リンカとアヤトは互いの脈を確かめるように手を繋ぎ、暗い廊下を踏みしめる。もし生き延びられたなら、廃園の鳥を救い、そして――壊れかけた都市の“形骸化したゲーム”の残酷さにどう向き合うかを問わねばならない。  激しい息遣いの中、ようやく訪れた静寂に、リンカの喉に熱いものが込み上げる。再び誰もが自分勝手に他者を利用する世界を見たくはない。たとえそれが人間の進化の限界でも、それでもなお、きっと本物の“利他”は、こんな強制や暴力とは違うはずだ。  足を引きずるアヤトが小さくうめき、それでも手を離さず歩を進める。非常灯のほのかな赤い光が、暗闇の中で道を照らしているように見えた。 (第二章・終わり)